郡山城 (こおりやまじょう)
所在地 大阪府茨木市郡山1‐10‐17 2015.5.3
郡山城 (こおりやまじょう)
所在地 大阪府茨木市郡山1‐10‐17 2015.5.3
説明板
浪速少年院東側の崖
浪速少年院
城跡碑・説明板・石垣石
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 高台にある浪速少年院(表記番地)の正面ゲートの右方に「旧跡郡山城跡」の石碑と説明板が建てられ、石垣の石が置かれている[マップコード1 891 438*78] (地図)。石には三ツ鱗、三ツ星印が刻まれている。
約300m西に行った府営茨木郡山住宅B9棟(茨木市新郡山1丁目 B-9)辺りに「城の内」「門口」など、城の位置を示す地名が残っている。
【歴史】 『郡氏由緒書』によると、高利(こうり)平太夫(郡兵太夫)は、摂津国高槻城主和田伊賀守に仕え、この国立浪速少年院辺りにあった郡山城に居住し、近隣七か村を支配していたと云われている。
『陰徳太平記』によると、元亀二年(1571年)八月、茨木・伊丹両氏と池田氏との対立が、茨木方の和田惟政と主君池田勝正を追い出した荒木村重・中川瀬兵衛ら池田21人衆との対立へ発展し、白井河原を挟んで合戦をした。
この時和田惟政軍5百余騎、池田勢2千5百余騎と多勢に無勢であり、和田軍の部下の高利平太夫(郡兵太夫)が一人で池田陣に行き、「主君は将軍からの急な呼び出しで京に赴いているので、その帰りを待って戦闘を始めたい」と申し入れ時間稼ぎをしたが、計略を見破られ戦闘が始まった。
帰陣した平太夫は主君惟政に「この軍勢では勝ち目がないので一旦退却したらどうでしょう。時に応じて軍を進めたり、退いたりするのが名将ですよ」と、進言したが聞き入れられず、やむなく名馬「金屋黒」に跨って奮戦したが、戦死したという。『茨木市教育委員会説明板』より。