松前城 (まさきじょう) (正木城・真崎城)
最寄地 愛媛県伊予郡松前町筒井1395 2020.2.9
松前城 (まさきじょう) (正木城・真崎城)
最寄地 愛媛県伊予郡松前町筒井1395 2020.2.9
公園
城跡碑
松前城碑
松前城跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【感想】 重信川河口左岸の三角州に築かれていた平城である。二の丸にあった龍燈の松跡に、旧陸軍大将秋山好古の揮毫による城跡碑が建てられている。住宅地となり、遺構は見られない。
【案内】 県道22号線に面して土盛された公園があり、城跡碑、説明板が建てられている[マップコード53 129 764*51](地図)。
【歴史】 『祝安親軍忠状』に、建武三年(1336年)、松前城に籠もる南朝方の合田弥田郎貞遠を北朝方の祝(ほふり)氏が攻め落とした旨記されている。
延元元年/建武三年五月二十五日(1336年7月4日)湊川の戦いで、松前城に拠った武将も北朝方として戦い、楠木正成を破った大森彦七や、その大森氏を滅ぼした荏原城主・平岡氏などが次々入れ替わった。
戦国時代、河野氏の居城・湯築城の出城として西方海上防衛の前線基地となり、河野氏の家臣栗上氏が詰めていた頃には、豊後の大友氏、安芸の毛利氏、土佐の長宗我部氏が相次いで侵攻してきた。
天正十三年(1585年)豊臣秀吉の四国平定後、河野通直は夫人の実家のある安芸国竹原に退去し、天正十六年(1588年)松前城に入城した粟野木工頭秀用(もくのかみひでもち)の後に、文禄四年(1595年)淡路国志知城1万5千石の加藤嘉明が久米、温泉、乃万、伊予の中予4郡6万石の領主として松前城に入った。
慶長二年(1597年)豊臣秀吉の命により、加藤嘉明は2400の兵を率いて朝鮮に出兵し、その功により10万石に加増された。
関ヶ原の合戦で、加藤嘉明は徳川方として戦い、その戦功により20万石に加増され、慶長八年(1603年)新たに築城した松山城に移り、松前城は廃城となった。
石垣や櫓などの資材は松山城の築城に使われた。「古城」と呼ばれた跡地は、次第に農地化し、明治時代に行われた耕地整理により一変した。唯一二の丸にあった龍燈の松も大正十一年(1922年)に倒壊し、その跡に、昭和四十四年(1969年)現在の城跡碑が建てられ、松前町の史跡に指定された。
塙(ばん)団右衛門は、加藤義明の臣として活躍に、のちに袂を分かち大阪夏の陣で豊臣方として戦い戦死した(1550頃から1615年)。