飯野城 (いいのじょう) (亀城・鶴亀城)
最寄地 宮崎県えびの市原田3595 2014.9.9
飯野城 (いいのじょう) (亀城・鶴亀城)
最寄地 宮崎県えびの市原田3595 2014.9.9
説明板
登城ルート(緑線は車道/赤は本丸/緑は二の丸/青は三の丸)
大手門
射場跡
本丸跡
亀城址碑・説明板
二の丸跡
飯野城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 国道221号線「飯野中学校入口」交差点より北へ約300m、川内川を渡ってすぐ左折[マップコード195 179 887*53]、 600mほど行くと、大手門跡があり冠木門が復元され、その奥に亀城公園駐車場(射場)がある[マップコード195 209 163*66]。
南西に本丸、桝形、南に物見曲輪がある。駐車場の北に三の丸跡(地図)があり搦め手口より西に約4㎞西にある加久藤城に至る連絡道がある。
駐車場の東低地に射場、弓場がありその東高台に二の丸跡(地図)がある。
【歴史】 永暦元年(1160年)に日下部重貞が真幸院司に就任し、真幸院守護の目的で築き居城とした。
日下部氏が没落すると、康永四年(1345年)に北原兼幸が真幸院司に就任し居城とした。
永禄七年(1564年)その北原氏も滅ぶと、島津氏の所有となり、島津貴久の次男・島津義弘の居城となった。小田村の久藤城を修築し、新城を加えて加久藤城と改称し広瀬夫人を置いた。義弘は30歳から56歳まで26年間居城し数々の合戦に出陣した。元亀三年(1572年)五月四日木崎原合戦で、義弘は伊藤義祐の軍勢に大勝した。
天正六年(1578年)兄義久らと高城合戦(児湯郡木城町)で豊後の大友宗麟の大軍を破った。勢いに乗った島津軍は肥後の相良義陽、肥前の龍造寺隆信らの軍を次々と破り、九州をほぼ制覇した。
天正十五年(1587年)に義弘の嫡男・島津久保の居城となるが、久保は文禄の役に参加中の文禄二年(1593年)に病死した。天正十八年(1590年)六月義弘は栗野の松尾城に移った。
慶長二十年(1615年)の一国一城令により廃城となった。元和五年(1619年)七月二十一日義弘は加治木屋形で生涯を閉じた(享年85歳・法名松齢自貞庵主)。