三原城 (みはらじょう) (浮城) (国の史跡)
所在地 広島県三原市館町1‐1 2013.10.7 2014.5.15
三原城 (みはらじょう) (浮城) (国の史跡)
所在地 広島県三原市館町1‐1 2013.10.7 2014.5.15
北側の後藤門石垣
天守台北側
広い天守台上面
東大手門跡
本丸中門跡
船入櫓石垣
三原城 天守台(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 山陽新幹線三原駅の一階通路の中ほどから北に専用階段を上って行くと、日本一の広さを誇る三原城天守台がある。
堀で囲われ高石垣のある天守台は転落防止の柵がめぐらされ、庭園風の広場になっている。周囲に三原の市街建物があり、南に城跡を分断して建造された山陽本線・山陽新幹線が通っている。
堀を挟んで西の本丸跡に公園があり「原爆死没者慰霊碑」が建てられ千羽鶴が奉納されている。原爆投下の影響が広範囲に及んだことがわかる。西に「小早川隆景公之像」の銅坐像が鎮座している。その西に「開明橋跡」の石碑がある。
堀の北側市道横に後藤門石垣が保存されている[マップコード154 835 757*16](地図)。
広島大学附属三原幼稚園(三原市館町2丁目6−1)の南東角に「東大手門跡」の石碑(地図)がある。
天守台の堀の東(新幹線橋脚北・三原市館町1丁目2−1)付近に鍛冶曲輪の石垣(地図)が残っている。
又、ペアシティ三原西館(三原市城町1丁目2−1)の西に本丸中門跡の石垣・堀(地図)が80mにわたって保存されている。
城町公園(城町1‐17)に隣接して船入櫓跡の石垣(地図)が良好に残っており、城町公園の北に「三原城址之碑」(漢文)が建てられている。
また宗光寺(三原市本町3‐11‐1)の山門(国の重要文化財)は新高山城の大手門(移築)と云われている。
最盛期の構造は、天主台を北(陸側)に頂いた本丸、その東・西・南側に二の丸、そしてそれらの東側に三の丸と東築出、西側に西築出を設けた広さ32町に及ぶ梯郭式の城であった。
さらに、海に向かって船入りを開き、郭を隔てる縦横の堀の重なりも加わると、満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えたので浮城とも呼ばれた。
昭和三十二年(1957年)12月11日、「小早川氏城跡」として、高山城跡・新高山城跡と共に国の史跡に指定された。
【歴史】 小早川隆景は天文十九年(1550年)に竹原・沼田両小早川家を掌握し、翌年には高山城に入城した。
その後天文二十一年(1552年)、沼田川対岸に新高山城を創築し本城とした。
弘治元年(1555年)には、厳島の戦いに水軍を率いて毛利勢の勝利に貢献するなど、急速に小早川氏ひいては毛利氏の勢力を伸ばした。永禄十年(1567年)頃に、小早川隆景によって整備が始められたとされる。
天正八年(1580年)~天正十年にかけて、三原要害は隆景によりさらに整備が進められ、いよいよ海城としての偉容を現した。そして隆景は、新高山城から三原城へと本拠を移した。
天正十五年(1587年)、隆景は豊臣秀吉から筑前国名島城に加増され、居城を移した。やがて文禄四年(1595年)、養子の秀秋に家督・筑前国を譲り、三原城に戻り隠居した。隆景は、慶長二年(1597年)に病死した。
隆景の死後に起きた関ヶ原の戦いの後、福島正則が安芸・備後に入封し、三原城には養子正之を入れた。
元和五年(1619年)、福島正則が改易となった後、和歌山藩主・浅野長晟(ながあきら)の一門で筆頭家老の浅野忠長が紀伊新宮城より入り、広島藩の支城として幕末まで利用された。この間、寛文三年(1663年)には本丸御殿を建て替えている。
明治維新後、城地は建物・樹木などは競売に付された。
昭和五十年(1975年)の山陽新幹線開業では、同新幹線と山陽本線の三原駅(高架改良後)が本丸および天主台跡を貫き城地は寸断され、現在の姿になった。