三沢城 (みざわじょう) (鴨倉城・亀嶽城) (尼子十旗)
最寄地 島根県仁多郡奥出雲町河内36 2018.5.10
三沢城 (みざわじょう) (鴨倉城・亀嶽城) (尼子十旗)
最寄地 島根県仁多郡奥出雲町河内36 2018.5.10
登城ルート(緑線は車道)
みざわの館
大手門石垣
本丸鳥居丸間の空堀
本丸・城跡碑
鳥居丸より見た本丸切岸・空堀
鳥居丸諏訪社壇
三沢城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高70m】
【感想】 奥出雲町鴨倉の標高418.5mの要害山に築かれており、本丸を中心に南下段に二の丸、東に鳥居丸などの主要郭を配置してある。
標識は随所に設置され、また、年数回にわたって地元住民により草刈など実施されているとの事で、堀切、切岸などよく見られ、いかにも中世の城を彷彿とさせてくれる。
【案内】 国道314号線の三沢地区入口に「三沢城跡入口」の石碑、観光案内板が建てられている。
三沢中心街を過ぎ「みざわの館」の標識に従って行くと、「みざわの館」(表記番地)駐車場に着く[マップコード388 731 062*65]。途中に三沢氏の家臣であった成田氏館がある。
「みざわの館」でパンフレットが頂け、また、電話で1週間前に予約すれば宿泊もできるという(☎0854-54-1060)。
駐車場から遊歩道が整備され、間もなく大手門に着き、石垣が残っている。その先が二の丸で、北端に城趾碑が建てられている。七曲りを経て登ってゆくと本丸、鳥居丸に着く。
二の丸の東側、「十兵衛担」の先には「三沢池」があり透明度の高い水を満々湛えていた。
島根県の史跡に指定されている。
【歴史】 信濃源氏の後裔で、信濃国飯島郷地頭の飯島氏は、承久三年(1221年)の承久の乱で戦功をあげ、出雲国三沢庄を与えられた。
乾元元年(1302年)飯島為長(為仲)は因幡国鹿野を経て出雲国三沢庄に来往し三沢氏を称した。この地で良質な砂鉄を採取して野タタラ製鉄、山野開拓に努め力をつけた。
嘉元三年(1305年)、仁多郡内をはじめ島根半島までも一望できる要衝の地・鴨倉山に要害山三沢城を築城し、三沢氏を名乗った。
延元三年(1338年)、大原香折新宮(加茂町屋裏)の地頭職となり、出雲平野部進出の足がかりを得た。
永正六年(1509年)、三沢為忠は、横田の高鍔山に藤ヶ瀬城を築城し移ったが、三沢城には城番を置いていたものと見られる。
天文九年(1540年)、三沢為幸は尼子氏に従って吉田郡山城の毛利氏を攻めた(吉田郡山城の戦い)。毛利元就に敗れた尼子勢が敗走する中、三沢十勇士を率いて、毛利本陣を襲い、ここで討死する。
永禄元年(1558年)、三沢為清は、尼子晴久に従い、再度、毛利攻めに出陣、この時、三沢城留守居役・布広氏は、郎党を引き連れて、毛利軍本体に合流せんとする高野山城勢を阿井福原で破った。
永禄三年(1560年)、三沢氏は毛利氏に降り、後は毛利氏に従って尼子氏の高尾城・馬木矢筈城を攻めた。
永禄九年(1566年)に尼子氏の本城・月山富田城を攻めた(尼子氏、毛利氏に降る)。
天正六年(1578年)には織田信長の庇護を受けて再興を目論む尼子勝久・山中幸盛の上月城を攻め(上月城の戦い)、続いて天正九年(1581年)同じく羽柴秀吉により水攻めを受ける備中高松城救援などに従った(備中高松城の戦い)。
しかし、天正十七年(1589年)、三沢氏の威勢を恐れた毛利氏の甘言により、三沢為虎は、一族郎党と共に安芸に出頭し、厳しい監視下に置かれ、三沢に帰城することも許されないまま、長門国厚狭郡に1万石を与えられ、毛利氏家臣となった。
毛利氏の家臣となった三沢為虎は、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、朝鮮出兵では蔚山城の戦いで戦功を挙げ秀吉より感状を受けた。関ヶ原の戦いでは西軍に属し赤間ノ関を守り、後、長府藩の代々家老となり明治維新に至る。『「みざわの館」パンフレット』より。