徳島城 (とくしまじょう) (渭津城・渭山城)(いのやまじょう) (国の史跡)(日本100名城76)
所在地 徳島県徳島市徳島町城内 2014.5.17
徳島城 (とくしまじょう) (渭津城・渭山城)(いのやまじょう) (国の史跡)(日本100名城76)
所在地 徳島県徳島市徳島町城内 2014.5.17
三の丸東石垣・堀
鷲の門(復元)
本丸下石垣
本丸
西二の丸
東二の丸・天守跡
徳島城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 吉野川河口の支流に囲まれた小山に築かれており、徳島城跡の東側堀に面した通りの北西角に有料駐車場がある[マップコード56 262 666*58](地図)。
三の丸跡には徳島市立徳島城博物館、千秋閣表御殿庭園、花壇などがある。濠の外の南側に平成元年(1989年)、「鷲の門」が復元されている。石垣の石には、眉山の三波川変成岩(結晶片石)が使われている。
西の丸屋敷あとには内町小学校が建てられている。堀以外の石垣も良く残っている。
博物館の北に貝塚や弁天池があり、「蜂須賀家政公」の銅像が建てられている。
城内の西より石段を登ると、「城山配水池」や西三の丸虎口、「帳櫓跡」があり、その東に「西二の丸」、「弓櫓跡」があり、東に広い「本丸」曲輪があり、本丸の北に「清玄坊神社」があり、石段を降って「東二の丸」がある。
創建当時の天守は元和年間(1615~24年)に取り壊されたといわれており、まもなく、城山の中腹にある「東二の丸」に天守代用の御三階櫓があった。
平成十八年(2006年)1月26日、国の史跡に指定され、同年4月6日、日本100名城(76番)に選定された。
【歴史】 この地は鎌倉時代より伊予国地頭の河野氏が支配していた。
室町時代の至徳二年(1385年)に細川頼之が四国地方にあった南朝方の勢力を討ち、現在の城地の城山に小城を築いた。
頼之は助任川の風光を中国の渭水に例え、この地を渭津、山を渭山と名付けたとされ、または富田庄(のちの徳島)の地頭として来任した河野通純が文永九年(1272年)に築いたともされる。
戦国時代になると、阿波の地は群雄が割拠し、しばしば城主が入れ替わった。天正十年(1582年)には土佐国の長宗我部元親が侵攻し阿波が平定された。
天正十三年(1585年)九月、豊臣秀吉の四国征伐に勲功のあった蜂須賀家政(蜂須賀正勝の子)が阿波一国18万6千石を賜った。
入封当初は徳島市西部にあった一宮城に入城したが、入封早々に現在の地に大規模な平山城を築造し、翌年完成した。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いにおいて、家政の子の蜂須賀至鎮(よししげ)が東軍に与し、領土を安堵され、子孫は徳島藩の外様大名として、代々松平の名字を徳川将軍から授与され、江戸時代を通して徳島藩蜂須賀氏25万石の居城となり、明治維新を迎えた。
8代蜂須賀宗鎮(むねしげ)以降は他家からの養子のため、元々の蜂須賀氏との血縁関係はない。
13代藩主の蜂須賀斉裕(なりひろ)の実父が徳川家成であり、最終的には徳川将軍の血筋となった。
明治六年(1873年)に発布された廃城令により存城処分となり、明治八年(1875年)には鷲之門を除く御三階櫓以下、城内のすべての建築物が撤去された。
明治三十八年(1905年)の日露戦争の戦勝を記念して、城跡の大半が、翌年徳島公園(現 徳島中央公園)として開設され、明治四十三年(1910年)に一般に開放された。ただし、旧御花畠は幕末に練兵場、1889年より徳島監獄署(現 徳島刑務所)が置かれ、公園からは除かれた。
その後、公園の範囲は多少変動し、現在はかつての城内のうち御花畠の西半分(現 合同庁舎・民有地)、西の丸の大半(現 内町小学校)、三木郭の南部(現 文化センター)が公園に含まれない。
昭和十六年(1941年)には表御殿庭園が国の名勝に指定された。明治以降の城地は石垣と堀、庭園、鷲之門のみが残った。
太平洋戦争中の昭和二十年(1945年)7月4日の徳島大空襲により、城跡内のほとんどの建物と共に、唯一現存していた鷲の門も焼失した。