矢田城 (やたじょう)
最寄地 山口県下関市豊田町矢田126 2017.5.8
矢田城 (やたじょう)
最寄地 山口県下関市豊田町矢田126 2017.5.8
登城ルート(赤丸は矢田城/青丸は長正司城)
社・背後より登る
土橋
主郭西側・空堀
主郭
主郭南東堀切
矢田城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高60m】
【感想】 木屋川の支流山田川南の標高113mの丘陵にあり、切岸、空堀、堀切が残っている。
【案内】 国道435号線より分かれた県道65号線より西に行った「西八幡宮」に駐車できる[マップコード268 444 124*05]。
石段前の右の道を行き、社の背後より直登すると、堀道が現れ、やがて土橋になり最高所となる。そこより右(東)に直角に折れ、2つのピークを越えてゆくと、東端に切岸のある主郭がある。
竹林となり、西側に浅い空堀、南に堀切がある。その先が大手と思えるが、道は失われている。迷いそうになり元来たルートを下った。
【歴史】 右田(朝倉)弘詮(ひろあき)の諏訪山城の出城で、八道方面の肥中街道を監視し、本城に伝達する狼煙場であったとされる。矢田城主は弘詮が兼ねていたか、朝倉兵庫の一族朝倉大学と伝えられている。東南の方が大手である。
右田(朝倉)弘詮は文人でもあり、吉川本『吾妻鏡』(岩国市吉川家所蔵)は弘詮の手になるもので、その奥書に「大永二年九月五日 安房前司弘詮㊞」の署名がある。豊田町教育委員会発行『目で見るふるさと豊田の歴史と文化』130pより。