地黄城 (ぢおうじょう) (地黄御陣屋・丸山新城)
所在地 大阪府豊能郡能勢町地黄211 2017.3.25
地黄城 (ぢおうじょう) (地黄御陣屋・丸山新城)
所在地 大阪府豊能郡能勢町地黄211 2017.3.25
大手門跡(食違虎口)
曲輪・北側土塁
南側石垣
能勢氏故城阯石碑
清普寺の山門(武家門)
地黄城跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【感想】 石垣がほぼ残され、喰い違い大手門跡がある。東側高台に町立東中学校が建てられている。
【案内】 国道477号線「地黄」交差点より町道へ入り、南へ約700m行き真如寺駐車場が利用できる[マップコード52 430 560*16]。
坂を東へ登ると町立東中学校(表記番地)があり、5mほどの段差の崖の西に広大な空き地となっている。
堀で囲まれた鳥居の石垣上に「能勢氏故城阯」の石碑が建てられている。中学校側との間に水堀が一部残り、土塁がよく残っている。
また高さ4~5mの石垣が西、南によく残っている。
清普寺(能勢町地黄815)の山門は地黄城の武家門とされる。
【歴史】 天正十年(1582年)本能寺の変において明智方に加担、そのため秀吉配下の河原長右衛門宣勝に攻められ、丸山城は落城、城下は焼け野原となった。
能勢頼次は落ち延び、以後領地は高山右近をはじめ、数代を経て天正十六年(1588年)島津氏の菅掌する所となった。
能勢頼次は、慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いで軍功を上げ、旧領と数十か所の村領地が安堵され能勢に復帰した。
能勢頼次とその一族の所領を合わせると7,800石余で、野間社を再建、地黄城の築城に着手した。
慶長七年(1602年)より普請が開始され、山田彦右衛門が普請奉行をつとめ丸山城から石材、木材を移し、丸山城の麓にあった市場も地黄城に移し城下の町割りについても整備していった。元和元年(1615年)秋地黄城は完成した。
能勢頼次は元和七年(1621年)に隠居したが、その間も領民に善政を布き、用水の開墾や道路の改修、また日蓮宗に深く帰依し、領内の各宗の改宗も行っており、能勢氏中興の祖と言われている。しかし、その能勢頼次も寛永三年一月十八日(1626年2月14日)江戸で没した。
徳川幕府は遺言によってその子孫に分与した。長男能勢頼重に3,000石、次男能勢頼高に1,500石、三男能勢頼之に1,000石、四男能勢頼永に846石、五男能勢頼平300石を夫々与えた。
地黄城は能勢頼重が引き継ぎ後の11代目能勢頼富まで続いた。
明治二年十二月(1870年1月)に上知し、地黄城は会議所に充てられ明治十二年(1569年)三月には能勢郡役所庁舎となり明治十三年(1880年)まで使用されていた。
昭和三十四年(1959年)能勢町立東中学校用地となった。