飫肥城 (おびじょう) (日本100名城96)
所在地 宮崎県日南市飫肥10‐1‐2 2013.10.10
飫肥城 (おびじょう) (日本100名城96)
所在地 宮崎県日南市飫肥10‐1‐2 2013.10.10
大手堀
復元大手門
大手門・桝形虎口
飫肥小学校
松尾の丸御殿
本丸跡
搦手門
飫肥城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 県道432号線北に観光駐車場が用意されている[マップコード274 432 670*11]。
酒谷川東の断崖上にあり城下町の雰囲気漂う街並みがある。大手門の通りに「小村記念館」と「豫章館」が保存されている。
復元された大手門(昭和五十三年)の前に堀が残り、門を入ると築地塀、「飫肥城歴史資料館」(表記番地)が建てられている。
二の丸跡は飫肥小学校・中学校敷地となり、松尾の丸に書院造りの御殿(昭和五十四年木造)がある。その北が広い石段を持つ本丸跡で、北に搦手門がある。
市街地に「商家資料館」「旧山本猪平家」「旧高橋源次郎家」「小村寿太郎生家」などがある。
平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(96番)に選定された。
【歴史】 宇佐八幡宮の神官の出で、日向の地に武士団として勢力を伸ばした土持氏が南北朝時代に飫肥城を築城したと伝えられ、飫肥院とも呼ばれていた。
長禄二年(1458年)九州制覇を狙う薩摩の島津氏が、鎌倉時代から日向で勢力を広げる伊東氏の南下に備えて、志布志城主で島津氏の一族である新納忠続を飫肥城に入城させた。
戦国初期は島津氏の属城で、はじめ築城主の土持氏が治めていた。文明十六年(1484年)に日向国中北部を支配する伊藤佑国が土持氏を裏切り新納(にいろ)忠続の飫肥城に侵攻し、翌文明十七年、二度目の侵攻で伊藤佑国が戦死した。
伊東伊佑(佑国の子)の本格侵攻を恐れた島津氏は、領土の割譲と戦の原因となった飫肥城主の交代(このときより飫肥城は島津豊洲家の支配となる)によって急場を凌いだ。
だが、当主を失った伊東氏の飫肥城にかける執念は凄まじく、その後も伊東氏による飫肥侵攻が断続的に続けられることとなる。
永禄十年(1567年)、念願かなって飫肥城を奪取した伊藤義佑(祐国の孫)は、子の祐兵に飫肥の地を与えた。
しかし、元亀三年(1572年)に伊東氏が木崎原の戦いをきっかけに没落すると、日向国全土を島津氏が治めるところとなり、飫肥も再び島津氏の支配するところとなった。
飫肥を失った伊藤祐兵(すけたけ)は羽柴秀吉に仕え、天正十五年(1587年)九州征伐に参加し活躍した戦功により再び飫肥の地を取り返し、大名として復活を成し遂げた。
以後、廃藩置県で飫肥藩が廃止されるまで伊東氏の領するところとなった。
関ヶ原の戦いで徳川側につき伊東氏は豊臣系の外様大名という微妙な地位ながらも飫肥の地で家名を全うした。
祐国が飫肥に侵攻した1484年から祐兵が豊臣大名として飫肥城主となった1587年まで103年の長きに及ぶ。
これだけの長期間に亘って伊東・島津氏という二つの勢力が一貫して一つの城を巡って争い続けた例は、日本の戦史において稀有な例といえる。