五龍城 (ごりゅうじょう) (県の史跡)
最寄地 広島県安芸高田市甲田町上甲立433 2018.12.8
五龍城 (ごりゅうじょう) (県の史跡)
最寄地 広島県安芸高田市甲田町上甲立433 2018.12.8
登城ルート(緑線は車道)
尾崎丸・宍戸司箭神社
尾崎丸西の堀切
釣井の段・奥が三の丸
本丸・石垣・土塁
本丸南側の石垣
本丸南西の堀切
御笠丸・土塁
五龍城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高140m(御笠丸)】
【感想】 江の川と本村川の合流点に伸びた半島状地形の尾根に築かれている。
規模は大きく、本丸から北東に階段状の郭を配置し、要所要所に土塁や堀切で防御されている。南西側に少し離れて、詰と思われる御笠丸がある。
【案内】 甲立小学校(表記番地)の西側を走る県道52号線の本村川に架かる「五龍橋」南詰に駐車場があり、説明板が建てられている[マップコード244 106 452*33]。
西約50mより階段を登った尾崎丸に宍戸司箭(ししどしせん)神社が祀られている。南西へ歩くと、櫓台、堀切があり、「一位の段」がある。その上段に「櫓の段」があり土塁が南西側に残っている。
そこより堀切、土橋を経て登ると「一位の段」がある。そこから階段状に「釣井の段」「三の丸」「二の丸」「桜の段」「姫の段」が並び最高所に本丸がある。本丸の南西側に高土塁があり、土留めの石垣が付いている。また南側に石垣が残っており、北側は崩れた石垣が散乱している。
本丸の背後に堀切があり、南西へ登ってゆくと3段になった「御笠丸」(地図)があり、高土塁が残っている。その南に土橋、堀切が残っている。
昭和四十六年(1971年)4月30日、広島県の史跡に指定された。
【歴史】 源頼朝の御家人である八田知家は鎌倉幕府で要職を務め、常陸国や下野国、安芸国に所領を得た。その八田知家の4男・八田家政が常陸国宍戸城を本拠とし、宍戸(ししど)姓を名乗った。
宍戸朝家は鎌倉時代末期に安芸国甲立荘に下向して土着し、ここに安芸宍戸氏が始まった。
安芸に下向した直後は本村川対岸の菊山の中腹に柳ヶ城を築き、居城としたが、南北朝時代に五龍城を築いて移った。
この時、水が不足したため、五龍王を勧請して祈願したところ井戸水が湧き出した。これを大いに喜んだ宍戸朝家は城を五龍城と名付け、五龍城は宍戸氏の居城となる。
戦国時代になると近隣との勢力争いが起こり、宍戸氏はこの城を中心に勢力を拡大していった。
やがて毛利氏とも争うようになったが、天文二年(1533年)、当主宍戸隆家は毛利元就と和睦し、元就の長女(五龍局)と結婚した。これ以後、宍戸氏は毛利氏の重臣として活躍し、毛利氏の勢力拡大に一助をなした。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、当主宍戸元続も毛利氏の防長移封に従い、萩へと去った。そして五龍城は廃城となった。