打吹城 (うつぶきじょう)
最寄地 鳥取県倉吉市仲ノ町3445‐8 2015.5.16
打吹城 (うつぶきじょう)
最寄地 鳥取県倉吉市仲ノ町3445‐8 2015.5.16
登城ルート
鎮霊神社
途中の展望台
備前丸・説明板
本丸・説明板
打吹城址碑
城址碑裏石垣
打吹城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高160m】
【案内・感想】 「倉吉歴史民俗資料館」(表記番地)に駐車場がある。「倉吉博物館」の西に南条備前守の居館跡である鎮霊神社(明治三十九年建立)があり、その西の遊歩道を左折すると、打吹山頂上へ1.4㎞の遊歩道が整備されている。
600mほど登り、西に行くと古刹長谷寺の西隣に越中丸がある。戻って南に登ると、櫓風の展望台が建てられている。
更に300mほど登った中腹に、備前丸の曲輪跡が残る。標高204m比高約160mの山頂部に、広い本丸は6つの曲輪からなる。本丸北隅に城址碑があり、天守台も残り、石垣が残っている。
【歴史】 南北朝時代の延文年間(1356~61年)、伯耆守護・山名時氏の嫡男山名師義が築城し、田内城から守護所を移した。
以後、戦国時代まで伯耆国守護山名氏による守護所として続いた。
大永四年(1524年)の出雲国尼子経久による「大永の五月崩れ」で攻められ、守護山名氏は衰退した。
永禄五年(1562年)夏には南条氏が旧領を回復し、打吹城を管轄下に置いた。
天正年間には毛利氏が入り、南条氏攻めの拠点となった。天正十三年(1585年)の羽柴秀吉と毛利氏の和睦の後は、再び羽衣石城主・南条元続の支配下に入った。
南条元続は一族の南条備前守(南条信正)、小鴨元清、重臣の山田越中守を置いて、打吹城の守備にあたらせた。また打吹城の近世城郭化が図られ、本格的な城下町が形成され始め、町の名が倉吉と呼ばれるようになったのも、この頃と考えられる。
慶長五年(1600年年)の関ヶ原の戦いで南条元忠は西軍に属して改易され、伯耆国は中村一忠の支配となった。
中村一忠は米子城を居城とし、打吹城には城番として中村伊豆守を置いた。
慶長十四年(1609年)、中村一忠は無嗣除封となり、打吹城は江戸幕府の直轄支配となった。
慶長十九年(1614年)に安房国の館山城主里見忠義が倉吉3万石を与えられるが、これは実質的には配流であり、里見忠義が打吹城に入ることはなかった。
慶長二十年(1615年)六月発布の一国一城令で打吹城は廃城となり、後破却された。
元和三年(1617年)に池田光政が因伯32万5千石の領主として鳥取城に入り、重臣・伊木忠貞を倉吉に置いて支配させた。
寛永九年(1632年)に岡山藩主池田忠雄の子池田光仲が池田光政(岡山城へ移封)と替わって鳥取城に入った。
倉吉は荒尾氏(次席家老で、池田輝正の母方に当たる。)による自分手政治の地となり、打吹山麓に陣屋(倉吉陣屋)が置かれて明治維新まで続いた。