愛藤寺城 (あいとうじじょう) (矢部城) (町の史跡)
最寄地 熊本県上益城郡山都町白藤1045 2015.5.11
愛藤寺城 (あいとうじじょう) (矢部城) (町の史跡)
最寄地 熊本県上益城郡山都町白藤1045 2015.5.11
登城ルート(緑線は車道/緑マークは二の丸)
城門跡
二の丸堀切
二の丸跡
本丸(北側)
本丸跡・標柱
説明板
愛藤寺城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 道の駅「通潤橋」(山都町184‐1)より県道180号線を南に約5㎞行った所に相藤寺バス停があり、その南を右折し(表記番地付近)、農道を南へ約350m行くと「城門」があり堀切がある。
更に南に約300m行った左の高台が「二の丸跡」で堀切が残り、郭の周囲には柵と網がかけられ立ち入れない [マップコード291 538 266*08](地図)。
その南50mの右に標高約450m比高10mの本丸高台がある。本丸跡には標柱、説明板が建てられている。
昭和四十六年(1971年)11月25日矢部町(現山都町)の史跡に指定された。
【歴史】 天台宗の古刹で愛藤寺を移して、貞応元年(1222年)阿蘇大宮司惟次が城を築き、在城約360余年間、全盛期には属城24城を数えた。
しかし天正十三年(1585年)八月島津軍の侵攻を受け没落した。
その後天正十五年(1587年) 佐々成政の所領となるが、翌年、成政は秀吉に切腹を命じられた。
天正十六年(1588年)小西行長が宇土城に入ったとき、結城弥平次は禄3,500石を得て家老となり、愛藤寺城代を太田市兵衛と共に務めた。弥平次はキリスト教に入信、布教活動に努めた。慶長七年(1602年)島原結城城に移った。
慶長五年(1600年)関ヶ原合戦後に小西行長が改易となると熊本城主加藤清正の所領となり、長尾豊前守善政、加藤正直が城代となった。
愛藤寺城は慶長十七年(1612年)江戸幕府の命により破却された。
今でも本丸、二の丸、三の丸、厩の跡や古井戸、石垣、空堀、堀切などの遺構がある。