須屋城 (すやじょう)
最寄地 熊本県合志市須屋500 2016.5.13
須屋城 (すやじょう)
最寄地 熊本県合志市須屋500 2016.5.13
説明板
説明板
土塁東側・説明板
土塁西側・曲輪
空堀
須屋城跡 土塁(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 国道3号線熊本北バイパスの東、表記番地の道路反対側に土塁が残っている。土塁の内側(西)は広い畑となっている。
lしかし2022年7月のグーグルマップで見ると土塁も無くなり住宅団地となっている。
バイパスを潜って西に行くと、すぐ「須屋観音堂」があり、その裏手に説明板が建てられている[マップコード29 673 150*02](地図) 。
【発掘調査】 国道3号線熊本北バイパスの路線が須屋城跡の一部を通ることになり、平成13年度から発掘調査を実施した所、城の空堀や土塁、掘立柱建物跡などの遺構や中国から輸入された青磁や白磁の碗、皿、壺などや銅銭、備前焼や瀬戸焼などの陶器、茶器である天目茶碗や風炉、釜、茶臼などのほかに日用雑器である滑石製石鍋、擂鉢、鍋などがたくさん出土した。
出土した遺物から、室町時代に最も繁栄していたことや、堀や土塁などの遺構の配置から城の重要な部分が遺跡の東北部に位置する事が判明した。
又、縄文時代早期(約8000年前)から弥生時代や古墳時代、奈良・平安時代など各時代にわたる土器や石器、鉄器などの遺物がたくさん出土したことから、ここには古代から現代にかけて長年にわたり、人々が生活していた様子がうかがえる。『合志市教育委員会説明板』より。
【歴史】 南北朝時代に須屋地域を治めた菊地氏庶流(分家)の須屋市蔵隆正の居城と伝えられる。、
菊地氏が衰えたのちは、合志親重に属したと考えられている。
城は東西約200m、南北約200mの約4万㎡の平城で、現在でも当時の空堀跡や土塁が残っている。『合志市教育委員会説明板』より。