枝吉城 (えだよしじょう・しきつじょう) (明石城・吉田城)
最寄地 兵庫県神戸市西区枝吉4丁目7‐1 2015.5.3
枝吉城 (えだよしじょう・しきつじょう) (明石城・吉田城)
最寄地 兵庫県神戸市西区枝吉4丁目7‐1 2015.5.3
説明板
吉田郷土館
本丸跡
本丸・城跡碑
枝吉城本丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 県道21号線より南に吉田郷土館(表記番地)があり、駐車場が用意されている[マップコード31 282 761*30]。郷土館の南に「神本神社」があり、古墳模型の横より西に登ると本丸が公園となっている。
「枝吉城址」の石碑、休憩所が建てられ、西側は道路の法面となっている。現在遺構として本丸の1/4程度が残っているだけで、昭和四十年(1965年)から始まった土地区画整理事業で城郭のほとんどはなくなってしまった。
標高26mの台地に本丸跡があり東西250m、南北110mの広さを持っていたが、神戸市玉津土地区画整理事業により本丸の3/4は削られてしまった。北側の台地には二ノ丸(消滅)があり、本丸とは堀切で隔てられていた。北東の隅に物見櫓がある曲輪があった。大手は東側だった。
【歴史】 15世紀中ごろ、赤松氏の被官の明石氏によって築城された。明石氏は古代明石郡の大領を先祖とする。枝吉城は二度の合戦が行われた。
一次枝吉城の戦い:天文七年(1538年)に尼子晴久軍の侵攻により淡路の岩屋城に避難していた赤松晴政であったが、阿波の細川持隆の支援を得て、翌天文八年(1539年)に船で明石に上陸した。
『赤松記』によると、赤松晴政・細川持隆連合軍は、人丸塚(現在の兵庫県立明石公園)付近に布陣し明石正風(長行)がいる枝吉城を攻囲した。この圧倒的大軍をみた明石正風は、不利と見て和睦を申し入れ、対して晴政は「明石御赦免」とし和睦を受け入れた。
二次枝吉城の戦い:明石氏は赤松晴政に降伏した後、晴政は細川晴元方となり、明石氏も晴元方に属していた。一方三好長慶は、江口の戦いで晴元配下の三好政長を討ち取り、晴元を畿内から追放した。
畿内をほぼ収めつつある長慶ではあったが、阿波には弟三好実休、讃岐には十河一存(そごうかずまさ)、淡路には安宅冬康、そして摂津と京都には自身がおり、阿波から京都への補給路を確保するため、中間地点にある枝吉城が晴元方に属しているのは問題があり、長慶は兵をあげることになった。
天文二十三年(1554年)十一月二日、まず先陣として三好実休隊と篠原長房隊が枝吉城を攻囲した。
しかし、直ぐには合戦とはならず明石氏軍も防備に徹し籠城戦となった。翌天文二十四年(1555年)正月に三好長慶軍も攻囲軍に加わり太山寺に布陣した。
明石氏はあまりの大軍に驚いたのか同月十三日、「色々懇望候て噯に成て和睦」と和睦した。その後三好長慶軍は依藤城に向かい、そこで約1カ月間の猛攻となり、城主であった三木次郎が和議を申し入れ開城した。
播磨東ニ郡を手に入れた三好長慶軍は同年二月二十七日、ひとまず開陣とし、阿波勢、淡路勢、そして長慶も芥川山城に帰城した。
明石氏の最期の城主は明石則実で、三木合戦では羽柴秀吉軍に与し、野口城を攻めた。
これらの功績により天正十三年(1585年)に豊岡城の城主となった。しかし文禄四年(1595年)、豊富秀次の謀反に連座して切腹させられた。
16世紀末にはキリシタン大名高山右近重友が最後の城主となったとされるが、異説もある。
現地説明板で明石氏の系譜は、越前守尚行―周防守祐実―右京亮則行―修理亮長行―左京亮祐行―左近助則実と紹介されている。