明石城 (あかしじょう) (喜春城・錦江城) (国の史跡・日本100名城58)(日本さくら名所100選)
所在地 兵庫県明石市明石公園 2013.10.6
明石城 (あかしじょう) (喜春城・錦江城) (国の史跡・日本100名城58)(日本さくら名所100選)
所在地 兵庫県明石市明石公園 2013.10.6
南東堀
坤櫓(左)と巽櫓(右)
坤櫓
巽櫓
本丸
本丸・天守台石垣
明石城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 山陽本線明石駅の北に明石公園として開放されている(明石市山下町14−7市立駅前駐車場がある)。
また当日は「明石トーカロ球場」にて高校野球予選大会開催中で混雑して入れなかったが、南西に明石公園有料駐車場(1時間200円 )が用意されている[マップコード31 223 657*54] (地図)。
南側に水堀が残っている。石垣の虎口を過ぎると、正面の芝生広場の北に高石垣の本丸跡があり、築地塀の両側に坤(ひつじさる)櫓、巽(たつみ)櫓が現存(重要文化財)している。野球場や陸上競技場の東を通って、本丸入口に至り、稲荷曲輪、本丸、二ノ丸、東ノ丸と東西に配置されている。
本丸は庭園になり、西隅に天守台の石垣がある。西より坤櫓、築地塀に沿って行くと東に内部公開中の巽櫓がある。
平成十六年(2004年)9月30日、国の史跡に指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(58番)に選定された。
【歴史】 元和四年(1618年)城主小笠原忠真が将軍徳川秀忠の命により幕府の援助と、岳父の姫路城主本多美濃守忠政の協力を得て築城し、元和六年小笠原忠真が船上城より十万石で移った。
寛永九年(1632年)、小笠原忠真は、小倉藩小倉城に転封となった。翌寛永十年(1633年)信濃国松本城より松平康直(戸田氏)が7万石で入城したが、急死したため松平光重が城主となった。
しかしその松平光重も寛永十六年(1639年) 美濃国加納藩(加納城)に転封となると、大久保忠職(ただもと)が7万石で入城したが、慶安二年(1649年)わずか十年間で肥前国唐津藩(唐津城)に転封した。
その後、丹波国篠山城より松平忠国が7万石で入城、その子・信之と共に名君として知られ、林崎掘割の用水路や一里塚の設置、海岸に防風林の造成、そして多くの新田の開発に努めた。
文化人でもあったらしく城内十景を選んでこの時に「喜春城」の名を付けた。しかしその松平信之も、延宝七年(1679年)大和国郡山藩に転封となると、代わりに郡山城に居た本多政利が6万石で入城した。
しかし、領内を収める事ができず、天和二年(1682年) 僅か3年後、苛政を責められ陸奥国岩瀬藩に1万石に減知転封となり、その後改易になった。
僅か50年の間に城主が目まぐるしく入れ替わったが、越前家の松平直明が6万石で入城し、以後明治維新まで十代、189年間親藩として松平氏の居城となった。
各城の遺材を集めて築城したせいか、老朽化が早く二代藩主松平直常の元文四年(1739年)には大修築が行われた。
最後の明石城主は松平直致で、明治七年(1874年) 廃城令により廃城となった。