天神山城 (てんじんやまじょう) (志方天神山城・赤羽城)
最寄地 兵庫県加古川市志方町西飯坂392 2020.5.9
天神山城 (てんじんやまじょう) (志方天神山城・赤羽城)
最寄地 兵庫県加古川市志方町西飯坂392 2020.5.9
登城ルート(緑線は車道)
故城主赤松氏範公塔
主郭南下段
主郭・標識
北西の2郭
2郭背後の堀切・土橋
北西の郭・大岩群
天神山城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高90m】
【感想】 加古川市志方町の標高129mの山頂に主郭があり、南と北西に郭が配置されている。主郭は広く目的は不明だが中央に列石が置かれている。
北西に堀切があり、斜めに土橋がかけられ、土塁の北西に長大な平坦地が伸びている。
【案内】 県道118号線より細い道に入り右折して登って行くと「西飯坂公会堂」(表記番地)があり、そこに駐車できる[マップコード24 264 548*17]。
公会堂の北に天満宮があり、境内の西側から登ると「故城主赤松氏範公塔」と刻まれた墓がある。遊歩道を登ってゆくと南の下段があり、最高所に広い主郭がる。
主郭の北西に土塁のある2郭があり、北西に斜め土橋付の堀切がある。その先に土塁があり北西に細長い郭が続いており、数か所大岩群がある。北西端は崖になっている。
【歴史】 永徳年間(1381~84年)に赤松氏範(氏則)によって築かれたと云われる。
赤松氏範は赤松則村(円心)の4男で、観応の擾乱(1350~52年)では、兄たちが北朝方に属したのに対し、一人だけ南朝方に属して戦い、摂津国中島郡に勢力を持った。
応安二年(1369)赤松則祐(赤松氏範の兄)が氏範追討の際に戦死した櫛橋伊光への恩賞として伊光の子・伊範に天神山城を与えた。
元中三年(1386年)赤松氏範は摂津国中島郡にて挙兵したが、足利義満の追討を受けて敗走し、播磨国加東郡の清水寺で自刃した。
天神山城は櫛橋氏の居城となったが、嘉吉元年(1441年)「嘉吉の乱」の後に赤松氏が衰退すると、櫛橋貞伊(伊範の孫)は城を放棄して伊勢に落ち延び、そこで自害した。
文明十三年(1481年)、貞伊の子・櫛橋則伊が天神山城に返り咲いた。
天正六年(1578年)4代城主櫛橋政伊の時、羽柴秀吉に反旗を翻した三木城主別所長治に呼応したが、妹婿に当たる黒田孝高の助言もあり、後に櫛橋一族の多くは黒田家臣となった。その後、志方城と共に廃城となった。