加治木城 (かじきじょう)
最寄地 鹿児島県姶良市加治木町反土1762 2015.5.10
加治木城 (かじきじょう)
最寄地 鹿児島県姶良市加治木町反土1762 2015.5.10
城跡鳥瞰図
登城ルート(緑線は車道/緑丸は御馬城)
坂道角の鳥瞰図
御馬城跡
御馬城跡標柱・堀切
本丸南側空堀
本丸跡
本丸・土塁
加治木城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 県道55号線「ふれあいパーク加治木」より西へ約180m行った所を右折、細い坂道を登った角に鳥瞰図が建てられている[マップコード42 590 629*65](地図)(柵の 前に路駐可)。
そこより西に約150m歩いた所に「加治木城御馬城跡」の標柱があり、道となっている空堀が残っている(地図)。
西に約100m行った所に空堀があり(樹木、草等で見づらい)、北に登ると家畜農家の敷地となっている本丸跡がある。
鳥瞰図看板の北、車道の東に「松尾城」、車道の西に「高城」「御馬城」「二の丸」「本丸」の5郭が並んでいる。その北に「大馬場」「向江城」があり、夫々宅地、畑となっている。
【歴史】 地元の豪族・大蔵氏によって築かれたと伝えられるが、正確な築城年や規模などの詳細は不明である。
平安時代中期の大蔵氏当主・大蔵良長には男子が無く、娘に婿養子を迎えた。その婿養子が関白・藤原頼忠の三男・藤原経平と伝えられ、経平はこの地に土着し、加治木氏を名乗った。
加治木氏は後に島津季久の三男・満久を養子として迎えたが、この満久の息子・久平は突如島津氏に対して反乱を起こし、明応四年(1495年)六月に島津氏家臣の川上氏の居た帖佐(現・姶良市)を攻撃した。
これに激怒した島津忠昌は翌年加治木氏を攻撃した。このときに加治木氏は加治木城に立て籠もったが、ついに敗れ、阿多(現在の南さつま市金峰町)に移された。
その後、加治木城は大隅国の国人である伊地知氏が領していたが、後に肝付氏の分家が加治木城主となった。
天文十八年(1549年)五月、種子島の領主・種子島時尭から贈られた鉄砲を使って、島津の家臣、伊集院忠朗が大隅国の加治木を攻めた。
肝付兼演(かねひろ)が島津貴久についたために、貴久と敵対していた菱刈隆秋、蒲生範清らの猛攻撃を受けた。
兼演は加治木城に籠城してこの攻撃に耐え、また貴久も息子の義久、忠平(後の義弘)らに菱刈・蒲生氏側に付いていた祁答院氏の岩剣城を天文二十三年(1554年)九月から攻略させたため、菱刈・蒲生氏らの撃退に成功した。
慶長四年(1599年)、加治木は泗川の戦いの恩賞として島津氏に返還された。
それから8年たった慶長十年(1605年)、義弘は突然10年居住した帖佐から平松(現・姶良市)、そしてこの加治木城へ移転した。
義弘が「加治木銭」鋳造所もある財力と、秀吉蔵入地があったという鹿児島には珍しい肥沃な土地に目を付けたのは確かだが、関ヶ原の戦いから7年も経ったこの時期になって移住を決めた理由は未だに謎である。
義弘は当初加治木城を大規模に改築して住むつもりであったが、慶長十二年(1607年)その麓に加治木館を築いて住むことになった。
山の上の加治木城があまりに不便であった為とも、この時期の築城が江戸幕府に嫌疑を掛けられた為とも云われている。
その後の加治木城はこの館の「後詰めの城」となり、実質的にこのとき廃城となった。