勝竜寺城 (しょうりゅうじじょう)
所在地 京都府長岡京市勝竜寺13‐1 2014.5.17 2015.5.3 2019.4.11
勝竜寺城 (しょうりゅうじじょう)
所在地 京都府長岡京市勝竜寺13‐1 2014.5.17 2015.5.3 2019.4.11
北東堀・隅櫓
南東堀・土塁・塀
太鼓橋 ・模擬櫓
沼田丸跡・井戸
空堀と土塁
勝竜寺城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 本丸跡および沼田丸跡が平成四年(1992年)に勝竜寺城公園として整備され、模擬櫓(表記番地)などが建造された。
本丸跡の「勝竜寺城公園」は9時から18時(11月~3月は17時、休園日は火曜)開園されている。沼田丸跡は常時開放され、井戸が保存されている。
往時の遺構としては、当城北東約150mに位置する神足神社(長岡京市東神足2‐16)南西側に空堀と土塁が部分的に残っている(地図)。
南東の小畑川にあった大手門跡に模擬門、石碑が建てられている[7 279 528*82](地図)。
また、細川忠興・ガラシャ夫妻にちなんだ「長岡京ガラシャ祭」が毎年秋に開催され、当時の様子を模した行列巡行などが行われている。
【歴史】 暦応二年(1339年)、京都をうかがう南朝方に対抗するため、北朝方の細川頼春が築いたと云われているが、
この城の初見は『東寺百合文章ひ』の康正三年(1457年)一月十九日に「来る二月八幡御番人夫五人、晦日勝竜寺へ早々越さるべく候」とあるので山城守護畠山義就が郡代役所として築城したと推定されている。
更に応仁の乱の『野田泰忠軍忠状』の応仁二年(1468年)に、「四月十四日、勝竜寺搦手北の口に於て合戦仕り、安富又次郎相共に馬場犴びに古市を焼落とす」と記しているので、この頃には軍事施設して使用されていた。
『日本城郭大系』によると「郡代の政庁から城郭に発展した典型的な例」としている。
その後有力な史料には勝竜寺城が現れてこないが、『永禄九年記』の永禄九年(1566年)七月十七日に、「小竜寺城、淀城扱いに依て取り退くと云々。小竜寺は岩成、淀は日向の内衆金子これを請け取ると云々」とあるので、戦国時代末期には淀古城と共に松永久秀、三好三人衆の属城となっていた。
観音寺城の戦いで勝利した織田信長は、足利義昭を奉じて上洛する二日前の永禄十一年(1568年)九月二十六日、柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成(よしなり)、坂井政尚ら四人の家臣に先陣を命じ、桂川を渡河し三好三人衆の岩成友通が守る勝竜寺城を攻撃させた。
九月二十九日に三好三人衆は、織田方の大軍を前に降伏・開城した。 天正六年(1578年)八月、藤孝の嫡男忠興と明智光秀の娘お玉(細川ガラシャ)が勝竜寺城で盛大な結婚式を挙げ、新婚時代を過ごしたとされている。
細川藤孝は天正九年(1581年)に丹後に入封し、代わって村井貞勝の家臣矢部善七郎、矢部猪子兵助の両名が城主となったが、翌天正十年(1582年)、本能寺の変によって明智光秀の属城となる。
同年の山崎の戦いで敗走した光秀は勝竜寺城に帰城するも、羽柴秀吉軍の追撃を受け、勝竜寺城から坂本城へ落ち延びる途中で落命した。
翌日に明智軍を破った秀吉が勝竜寺城に入城した。一方、光秀の援軍要請を断った藤孝は剃髪、家督を忠興に譲って居城を田辺城に移し、ガラシャは離縁し幽閉してしまった。
その後勝竜寺城は石材が淀古城の修築に使用されるなどして一旦荒廃した。江戸時代に入った寛永十年(1633年)、永井直清が山城長岡藩へ封ぜられ、荒廃していた勝竜寺城の修築を行うが、江戸幕府より「堀はさわらない、勝竜寺城古城の北へ屋敷を取れ」という命を受けた。
この際に不完全ながらも近世城郭としての勝竜寺城が完成した可能性が指摘されている。
しかしそれも短期間のもので、慶安二年(1649年)に直清が摂津高槻藩(高槻城)に転封されると同時に完全に廃城となった。