城井谷城 (きいだにじょう) (城井ノ上城)(きいのこ(う)じょう)
最寄地 福岡県築上郡築上町寒田527‐1 2015.5.14
城井谷城 (きいだにじょう) (城井ノ上城)(きいのこ(う)じょう)
最寄地 福岡県築上郡築上町寒田527‐1 2015.5.14
登城ルート(緑線は車道)
表門
主曲輪
裏門番人の穴
裏門・根上の榊
展望台
城井谷城 主曲輪跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 県道32号線の「寒田保育園」(表記番地)を過ぎ南西に約3㎞行った「牧の原キャンプ場」の南300m、「牧の原橋」手前を左折、約450m行くと「城井霊園」の駐車場がある[マップコード96 117 039*81](地図)。
その途中に「宇都宮一族之碑」や説明板、案内板、天守ミニチュア、「三丁弓の岩」などがある。
駐車場より少し行くと、自然石の穴を利用した表門がある。その東に登ると緩やかな斜面の谷戸構えの主曲輪があり、碑、祠がある。
更に沢伝いに20分ほど歩くと裏門があり、「番人の穴」や険しい岩があり「根上の榊」の生えた狭間がある。
そこを抜けて右に登り、手摺のある岩山を登って行くと、比高約100mの尾根に展望台がある(地図) 。展望台から岩山に囲まれた広い城跡が望める。
【歴史】 建久六年(1195年)、源頼朝によって豊前守護職に任ぜられた宇都宮信房が築城し、豊前宇都宮氏の居城となった。
後に宇都宮氏は城井氏と改名するが、この城の重要性は変わることなく、城井谷城を中心に城井氏は豊前の勢力を保った。
時代は流れ、戦国時代になっても、周囲の勢力の変遷(大内氏から大友氏へそして島津氏)に翻弄されながらも、城は一度として侵されることなく存続した。
天正十四年(1586年)宇都宮(城井)鎮房と嫡男朝房は豊臣秀吉の九州平定(島津氏攻め)に協力した。
しかし九州国分けでは、鎌倉時代より豊前国を治めた宇都宮氏一族の豊前六郡は黒田官兵衛孝高(よしたか)の所領となり、鎮房は伊予国へ転封を命じられた。
これを不服とした鎮房と下毛郡の野仲鎮兼を筆頭とした宇都宮氏一族は各地で黒田氏に蜂起したが、次々と鎮圧された。
鎮房は寒田の大平城(北東3㎞の山頂)を拠点として、城井ノ上城を籠城所として最後まで抵抗したが、遂に和睦した。
しかし、天正十六年(1588年)四月二十日、黒田長政は鎮房を中津城で謀殺し、城下の合元寺に留め置かれた部下および城井谷城の留守を守っていた鎮房の父・長房や家臣団も掃討された。
肥後国人一揆鎮圧のため黒田孝高に同行して肥後にいた朝房も、孝高に暗殺され、豊前宇都宮氏四百年の歴史は幕を閉じた。