千早城 (ちはやじょう) (楠木詰城・金剛山城・千早のかくれ城) (国の史跡・日本100名城55)(楠木七城)
最寄地 大阪府南河内郡千早赤阪村千早1033-1 2013.9.5
千早城 (ちはやじょう) (楠木詰城・金剛山城・千早のかくれ城) (国の史跡・日本100名城55)(楠木七城)
最寄地 大阪府南河内郡千早赤阪村千早1033-1 2013.9.5
案内図
登り口・説明板
四の丸跡
二の丸・千早神社
本丸跡
背後の堀切
千早城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高160m】
【案内・感想】 「金剛山ロープウエイ」に向かう府道705号線の「大阪府富田林警察署千早駐在所」(表記番地)東の城跡看板の脇の石段より頂上への登山道があり、金剛山登山口の駐車場が利用できる[マップコード36 273 605*70]。
約700mの尾根道で、 300mほど登るとやや広い四の丸跡(地図)に着く。
千早神社の一の鳥居をくぐって尾根道や石段を登ると三の丸跡であり、さらに100m行くと千早神社の祀られている二の丸に着く。
一段高く標高666m比高約160mの山頂に本丸跡があり、「史跡千早城址」の石碑及び祠が建てられている。
本丸の右の巻道を150mほど行くと堀切があり、「楠木正成の墓」がある。そこより下ってゆくと別の登山口(地図)に着く。
昭和九年(1934年)3月13日、国の史跡に指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(55番)に選定された。
【歴史】 南朝暦元弘二年(1332年、北朝暦正慶元年)十二月楠木正成は下赤坂城を奪い返し、鎌倉幕府方の湯浅宗藤を帰順させた。上赤坂城の詰城として千早城をその背後の山上に築いた。
元弘三年(1333年、正慶二年)二月二十二日、上赤坂城で戦いが始まり、善戦したが鎌倉幕府軍に水の手を切られ、平野将監が降伏の意を伝えた後も、数日持ちこたえたが、楠木正季が千早城に引きさがると、同年二月二十七日ついに落城、幕府は楠木正成の千早城への出軍を命じた。
鎌倉幕府軍は千早城へ百万と号する大軍を向け、これを攻め立てた。籠城側・楠木軍は僅か千人足らずの小勢で守ったとある。千早城へ釘付けになっている幕府軍の間隙を縫い、後醍醐天皇(先帝)が三月四日隠岐国の配所を脱出、討幕の論旨を全国に発し、これに播磨国赤松則村、伊予国河野氏、肥後国菊池武時が蜂起すると、千早城を囲んでいた守護が相次いで帰国した。
関東において挙兵した新田義貞は、手薄となった鎌倉を攻め、鎌倉幕府は滅亡することとなった。
鎌倉幕府が滅亡するのは百日戦争(千早城の戦い)が終った12日後のことであった。
建武の新政以後、南朝方の楠木氏の居城となり城主は楠木正行、正儀、正勝と続いていたが、南北朝時代末年となる明徳三年(1392年)正月、楠木正勝の時に北朝方の畠山基国に攻められ千早城は落城し、61年に及ぶ歴史に幕を閉じた。