嶽山城 (だけやまじょう) (龍泉寺城) (楠木七城)
最寄地 大阪府富田林市龍泉880−1 2022.11.4
嶽山城 (だけやまじょう) (龍泉寺城) (楠木七城)
最寄地 大阪府富田林市龍泉880−1 2022.11.4
南東遠景
かんぽの宿富田林
テニスコート・水源左を進む
平坦地・城跡碑
説明板・城跡碑
説明板
嶽山城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 富田林市にある標高約281mの山頂に築かれている。かんぽの宿のテニスコート部分も城跡と思われ、塚上に城跡碑が建てられているが、他に目立った遺構は見当たらなかった。
【案内】 府道201号線「龍泉」交差点より西に登って行った「かんぽの宿富田林」(表記番地)の駐車場が利用できる[マップコード10 476 324*21]。
本館左よりテニスコート西側を通ってゆくとすぐ塚の上に「楠公龍泉寺城跡」の碑が建てられている。
【歴史】 嶽山城は、元弘二年(1332年)楠木正成によって築かれた。
楠木正儀、和田正武が南朝の兵1000名余と共に守備していたが、寄せ手が攻めてこないので、100人ほどを残し、大半の兵を他の戦場に移した。
この時木々に旗を結わえ大軍が籠っているように見せかけた。廿山(つづやま)に居た寄せ手の陣は大軍が籠っていると思い込み、150日ばかりが過ぎた。ある日、才覚ある老武者が、林に帰る鳥が驚かないのは見せかけの旗ばかりと気づき、正平十五年(1361年)細川清氏、赤松範実らによって攻め落とされた。
その後、河内国守護畠山氏の支城となったが、朝敵にされた畠山義就が長禄四年(1460年)十二月、籠城した。ここに応仁の乱の前哨戦とも言える嶽山城の戦いが開始され、2年以上も細川勝元や政長を中心とする幕府軍を散々悩ませたが、寛正四年(1454年)、成身院光宣の計略によって嶽山城は陥落した。義就は吉野へ逃れた。
永正五年(1508年)畠山義就の孫・義英は細川勝元の孫・澄元と合戦となり、嶽山城に立て籠もった。しかし、澄元の家臣である赤沢長経に攻め落とされ、義英は城を捨てて逃亡した。その後廃城となった。