花尾城 (はなおじょう)
最寄地 福岡県北九州市八幡西区鳴水町7‐18 2015.5.5
花尾城 (はなおじょう)
最寄地 福岡県北九州市八幡西区鳴水町7‐18 2015.5.5
説明板
登城ルート(緑丸は東郭/緑線は車道)
林道からの登り口
二の丸跡
本丸跡・城址碑
石塁
石塁下大井戸
東尾根の大堀切
花尾城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高130m】
【案内・感想】 九州自動車道下の道を南に行き左折し(表記番地)南の道路を東に約250m行くと、花尾城公園登山口がある[マップコード16 334 690*54](地図)。2台駐車スペースがある。
中登山道を行くと徒歩20分で四の丸跡に着き、櫓台がある(地図)。
そこから東に登ると、石段、石垣虎口のある三の丸跡の広い曲輪がある。
そこより東に登ると、土塁の残る二の丸跡があり、そこより一段高く、標高351m比高約130mの山頂の本丸跡がある。
本丸には北側に方向板のある展望台、東側に土塁・石垣上に「史蹟花尾城・麻生氏之居城之墟」(昭和九年)の石碑が建てられている。石垣の虎口を下ると広い東郭があり、説明板が建てられ、東に二ヶ所虎口がある。
左より下って行くと、竪堀の役目を果たしている石塁が斜面に沿って築かれ石塁が終わる最下段に四角の石組の井戸が残っている。
本丸東郭の右より下ると大堀切があり、出丸跡、堀切、馬場跡(地図)がある。
【歴史】 平家滅亡後、宇都宮朝綱の家政は鎌倉幕府の命により遠賀山鹿荘に下り、山鹿氏を称した。
その子時家は次男資時に麻生庄、野面庄、上津役郷を割譲し、資時は麻生庄に本拠を置き麻生氏を名乗った。
築城年代は定かでないが、南北朝時代と推定され、その頃は麻生山と呼ばれたという。
文明十年(1478年)、惣領家麻生弘家と反惣領派家信(家延)との家督争いに大内政弘が弘家を援けて介入、篭城する家信を攻めたが3年間落城さなかったが、和議により家信は遠賀荘を得て岡城へ退き、弘家が城主となった。
その後、城主の麻生弥五郎なる人物(詳細不詳)を追放した大内義隆が奪うが、城主となった相良武任が陶隆房(陶晴賢)の反乱(大寧寺の変)により殺害されると再び麻生氏に帰し、麻生鎮里(しげさと・家信の子で元水晶城主)が城主となった。
しかし鎮里は、永禄十年(1567年)、対立していた一族の麻生隆実(たかざね、遠賀郡山鹿城主)と戦うも、宗像氏貞の支援を得た隆実に敗れ、城を出て薩摩の島津氏の許へ逃れた。
天正十四年(1586年)、豊富秀吉の九州征伐で、麻生家氏(いえうじ・隆実の子とされる)は軍艦黒田孝高に降伏し、翌年筑後へ所替えになり、小早川隆景の領有となって、廃城になった。