吉弘城 (よしひろじょう) (吉広城)
最寄地 大分県国東市武蔵町吉広1062 2019.5.4
吉弘城 (よしひろじょう) (吉広城)
最寄地 大分県国東市武蔵町吉広1062 2019.5.4
登城ルート(緑線は車道)
居館跡
駐車場・説明板
堀切
主郭・吉弘城址碑
段郭
東側空堀
吉弘城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高120m(林道入口より)】
【感想】 国東市武蔵町吉広の北に伸びる標高182mの尾根頂上に築かれている。
駐車場北側に堀切があり、その上に主郭がある。主郭に城址碑が建てられ、段々になった郭がある。
東側に折れのある空堀があり、その手前から居館に行く大手道がある。堀道で石畳、石垣が点在している。
【案内】 県道55号線より表記番地に向かい、その先より左(東)に60m程行くと石垣や井戸の残る「吉弘氏館跡」がある(地図)。
県道55号線に戻って西に約400m行くと「吉弘城跡1.6km」の看板が建てられ、南へ舗装林道がある[マップコード265 379 415*76](地図)。
林道を約1km南下し、三叉路を左(東)に行く。さらに300m先を左折する[マップコード265 350 242*88](地図)。北に250m行くと見学者用駐車場があり説明板が建てられている。
【歴史】 建武元年(1334年)頃、吉弘氏初代又次郎正堅により築城された。
正堅は大友能直の子・田原泰広の孫直貞の次男である。その後、氏輔・氏広・真意・綱重・親利・親信と続き8代氏直に至る、約200年間の居城であった。
天文年間(1532~55年)初め頃、氏直は屋山城に移り、9代鑑理(あきまさ)・10代鎮信・11代統幸に至る80年間は屋山城の支城となった。
永禄十年(1567年)大友氏による筑前秋月氏攻めの際、鑑理が道場山に陣を張り参戦した。