穆佐城 (むかさじょう) (穆佐院高城) (国の史跡)
最寄地 宮崎県宮崎市高岡町小山田2473 2016.5.15 2019.3.6
穆佐城 (むかさじょう) (穆佐院高城) (国の史跡)
最寄地 宮崎県宮崎市高岡町小山田2473 2016.5.15 2019.3.6
登城ルート
堀切を下りてきた北側入口
大堀切
主郭
坪之城
西側の曲輪群C
西側入口
穆佐城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 瓜田川とその支流に挟まれた標高58mの丘陵に築かれ、大堀切で区画された3つの曲輪群から構成されている。
2回目の登城で、曲輪群Bにある主郭や大堀切を見つけられた。主郭は東西に細長く2段になっており、東側に土塁、大堀切が残っている。主郭南の堀道を東に行くと、平坦地(坪之城)が見られた。
西側の切岸に梯子が架けられ、そこより下りられ、堀底を北に下ると、カーブミラーのある道路に出た[マップコード66 338 598*17](地図)。見学の際には、ここから入った方が良いと思う。
【案内】 県道28号線より東に約450m行ったT字路に「穆佐城跡」の道標があり、表記番地の東に「高木兼寛」像の建つ公園がある。そこから道路を堀切として右側に曲輪群Dがある。
入口に穆佐城説明板が建てられて、道路左側に登り口(地図)がある。斜めに登ってゆくと、南側に道があり、左側に郭跡があるが、5月中旬で草が茂って踏み込む余地もないほどだった。
西から曲輪群C、主郭のある中央の曲輪群B、小郭の多い曲輪群Aがあり堀切で区分されている。
三俣(股)院高城(都城市)、新納院高城(木城町)と共に日向三高城と呼ばれている。
平成十四年(2002年)3月19日、国の史跡に指定された。
【歴史】 穆佐城は、古くは穆佐院政所があったとされ、南北朝時代には日向国守護の城であり、又、南九州における南朝方と北朝方の戦いの場にもなった。
応永十年(1403年)島津8代当主島津久豊が穆佐城に入り、同じ年、9代当主忠国が城内で誕生した。
文安二年(1445年)久豊との戦いに勝った伊東祐堯の領地になり、10代当主義祐の頃には「伊東四十八城」の一つとなった。
天正五年(1577年)伊東氏の没落後は、再び島津氏の領地になった。
慶長二十年(1615年)江戸幕府の一国一城令により廃城となった。