肥田城 (ひだじょう)
最寄地 滋賀県彦根市肥田町527 2019.6.21 2019.7.6
肥田城 (ひだじょう)
最寄地 滋賀県彦根市肥田町527 2019.6.21 2019.7.6
配置図
南東の土塁
南東の土塁 と馬道
城跡碑
内郭にある城跡碑と山王祠(右奥)
崇徳寺にある宝篋印塔
肥田城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 「案内板」によると、肥田城の内郭は城跡碑から北東の宇曽川堤防までの一辺約200mの方形とされ、現在は実り豊かな水田となっている。
外郭の土塁は、集落の東側と南東にかけて200m程にわたって残っている。
【案内】 県道204号線の宇曽川に架かる橋の南詰に、「肥田町歴史ロマンロードめぐり」の案内図が建てられている[マップコード101 100 498*00](地図)。
外郭の堀(用水路)と土塁は、南東側住宅裏にあり、用水路の外側を徒歩で見学できる(地図)。L形の土塁や、馬道(めどう)が1ヶ所残され、クランクして市道を横断している(地図)。
県道に面した肥田町公民館に駐車出来、隣の崇徳禅寺(表記番地)は肥田氏歴代の菩提寺で、肥田氏の宝篋印塔が祀られている。
県道を西に200m程行くと「肥田城跡」の石碑と案内板が建てられている[マップコード101 100 574*17](地図)。
そこから北に100m余行った場所(内郭)に山王祠があり、城跡碑、説明板が建てられている。
【歴史】 大永年間(1521~28年)高野瀬隆重によって築かれ、隆重・秀隆・秀純(秀澄)が居城としたと云われる。
高野瀬氏は代々六角氏に仕えていたが、高野瀬秀純の代に浅井氏に付き、永禄二年(1559年)の「肥田城の水攻め」、永禄三年(1560年)の「野良田表の合戦」の2度にわたり、六角定頼・義賢(承禎)父子に攻められた。六角義賢は城の周囲に土塁を築き、肥田城を水攻めにしたが、土塁が崩れ、水攻めは失敗に終った。
永禄十二年(1569年)、織田信長に攻められ肥田城は落城し、秀純は浅井氏に仕えた。
天正元年(1573年)浅井氏が織田信長に攻められ滅亡すると、高野瀬秀純は柴田勝家に仕えるが、天正二年(1574年)越前一向一揆に敗れて自害した。
その後、天正二年(1574年)蜂屋頼隆が城主となり、天正十一年(1584年)には長谷川秀一が城主となった。長谷川秀一が文禄の役で病没すると廃城となった。