小谷城 (こだにじょう)
最寄地 兵庫県加西市北条町小谷488 2019.4.12
小谷城 (こだにじょう)
最寄地 兵庫県加西市北条町小谷488 2019.4.12
登城ルート
赤松祐尚の墓
4の丸横堀・看板
5の丸西の堀切
3の丸
2の丸・本丸
本丸
小谷城跡 (地図)
【遺構★★★★☆ 比高120m】
【感想】 加西市北条町小谷の標高218mの山頂に築かれている。西端に西小丸があり、堀切を挟んで5の丸、4の丸、3の丸、2の丸、本丸と階段状に東西に配置されている。東端に土塁付の堀切が残っている。また南側に横堀が良く残っている。
頂上は細長くよく手入れされ、麓からも遠目に城跡看板が見え、本丸からも眼下に小谷地区が望める。
【案内】 中国自動車道を潜って行った小谷区公民館(表記番地)前に駐車出来、案内板と裏面に説明文等が掲載されている[マップコード24 684 594*54](地図)。
すぐ北の三叉路を右に細い道を行くと陽松禅寺(表記番地)があり、その右側から遊歩道が続いている。
池の北側に小谷城の戦いで討死した家臣の墓群があり、その先に赤松祐尚の追善墓が祀られている。
フエンス扉を開け閉めして右に登り、谷を挟んで東の尾根に着き、登ってゆくと4の丸付近に着く。
【歴史】 築城時期は定かでないが、赤松満祐の末弟直操(なおもち)の居城であった。
備前・播磨・美作の守護大名であった赤松満祐は、満祐の領地を没収しようとした室町幕府6代将軍・足利義教(よしのり)を京都二条の赤松邸で殺害し、播磨に戻ってきた。
嘉吉の乱(1441年)で、長兄の満祐や実弟で善防師城主赤松則繁らと共に幕府軍の山名・細川・新田勢他と戦ったが、真弓峠の合戦で山名勢に敗れ自害した。
備前・播磨・美作の三国は山名氏の領地となったが、満祐の実弟赤松義雅の孫正則が応仁の乱(1467~77年)赤松氏を再興すると、赤松祐尚(すけひさ)が小谷城主となった。
天文元年(1532年)祐尚は麓に菩提寺として陽松禅寺を建立した。
天文十一年(1542年)播磨に侵攻してきた尼子氏を迎え討ったが、敗れて討死した。