兵庫城 (ひょうごじょう) (兵庫陣屋)
最寄地 兵庫県神戸市兵庫区切戸町5‐37 2015.5.3
兵庫城 (ひょうごじょう) (兵庫陣屋)
最寄地 兵庫県神戸市兵庫区切戸町5‐37 2015.5.3
城跡碑・説明板
新川運河
兵庫城跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 新川運河に沿った一方通行道路の表記番地のマンション前、舗道横に「兵庫城跡」の石碑、説明板が建てられている[マップコード12 276 391*21]。遺構は新川運河工事のため消滅している。
平成27年の神戸市の発掘調査で、運河対岸の「中之島中央市場」西の空き地(地図)から兵庫城石垣が出土している。
【歴史】 天正八年(1580年)池田信輝と輝政父子が、花熊城を攻め落とした功によって兵庫の土地を与えられてから、兵庫はそれまでの室町幕府の権力を離れ、東大寺や興福寺と兵庫の関との関係も脱して、新たに織田信長の手に入り、これを機会に池田氏は天正九年(1581年)花熊城の遺材も加えて兵庫城を築いた。
その場所は現在の切戸町、中之島中央市場にかけて東西・南北とも約140mの地域で、周囲には幅3.6mの堀があった。古来兵庫は、源平の合戦、湊川合戦以来たびたび大きな合戦が行われ、戦災に遭遇した。
元和三年(1617年)尼崎藩領となって、藩の陣屋となり、明和六年(1769年)幕府直轄領となってからは、大坂奉行所に所属して、与力や同心の勤番所として明治になるまで続いた。
新政府は慶応四年(1868年・同年九月八日明治改元)一月二十二日にこの城跡の一部に兵庫鎮台を設けたが二月二日に兵庫裁判所と名が変わり、五月二十三日にまた「兵庫県」と改められ兵庫県庁が置かれた。
その後県庁は同年九月十八日、今の神戸地方裁判所の場所に新築移転、さらに明治六年(1873年)五月現在地に移転した。
明治七年(1874年)新川運河の開削が行われ、城跡の中心地はほとんど消滅してしまった。