国分山城 (こくぶやまじょう) (国府城・唐子山城・府中城)
所在地 愛媛県今治市古国分 2018.3.6
国分山城 (こくぶやまじょう) (国府城・唐子山城・府中城)
所在地 愛媛県今治市古国分 2018.3.6
登城ルート
居館跡
登り口
3郭(奥に主郭への階段)
主郭
南の2郭
国分山城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高100m】
【感想】 瀬戸内海を望む標高105.3mの唐子山に約30m四方の主郭があり、西に2郭、東に3~7郭が階段状に配置されている。
石垣は今治城築城の際持ち去られたという。防御には石垣が多用されたと思われ堀切や空堀などは見当たらない。居館跡の東側に堀跡が点在している。
【案内】 県道38号線より西に行った池の手前に駐車場が用意され、説明板が建てられている[マップコード119 694 168*67](地図)。
池堤防先より左に登り口があり、登ると左に竹林となった7郭がある。その西に階段状に6郭、5郭、4郭と並び中腹に狭い3郭が並んでいる。唐子山頂上に広い主郭があり、西に少し下がって狭い2郭がある。
居館跡は駐車場の南の竹藪付近にあり、民家、畑となっており、東側に水堀の跡が残っている(地図)。
【歴史】 古くは南朝の総大将脇屋義助の居城と伝わるが確実な史料ではなく築城の時期は不明である。
天正十二年(1584年)二月、村上元吉が国分山城の普請を行っており、能島村上氏と密接に関係した城と考えられている。
羽柴秀吉の九州平定後の天正十五年(1587年)頃に、能島村上氏は芸予諸島を去ったとされ、国分山城も能島村上氏の手から離れたとされる。
天正十五年(1587年)には福島正則の所領となり、このころ、国分山城や居館、城下町の整備が行われたと思われる。
その後、文禄四年(1595年)には池田秀雄が入り、慶長三年(1598年)には小川祐忠が入城した。
慶長五年(1600年)小川祐忠は西軍に付いたため改易され、藤堂高虎が入城した。
慶長七年(1602年)今治城の築城を開始し、国分山城の石垣は持ち去られた。慶長九年(1604年)今治城の完成と共に国分山城は役目を終えた。