三ツ山城 (みつやまじょう) (吉富城)
所在地 宮崎県小林市細野3028 2014.9.9 2019.3.5
三ツ山城 (みつやまじょう) (吉富城)
所在地 宮崎県小林市細野3028 2014.9.9 2019.3.5
専寿寺にある案内板
小林古墳(城山)
住宅地の段
西端(最高所)
専寿寺
景行天皇御腰掛石
三ツ山城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 現在は住宅地(城山団地)となり、小さな児童公園内に「小林古墳(城山)」の指標が建てられているのみである[マップコード227 521 652*42]。
東西約330m、南北約120mの団地の高台が東に向けて2、3段に低くなっている。南西の麓にある専寿寺(小林市細野3034)境内左手に『景行天皇御腰掛石』があり、その案内板に三ツ山城の説明文が併記されている。
【歴史】 平安時代末期、比叡山延暦寺の明雲僧正を迎える為、当時宝光院の住職であった吉留氏が三ツ山城を築いたと云われる。
その後、日下部氏が真幸院司である間は、日下部氏の管理下に置かれたようであるが、北原氏が真幸院司になるとそのまま北原氏の所有となった。
当初、北原氏の居城は飯野城であったが、いつ頃からか三ツ山城を居城とするようになった。
永禄元年(1558年)に北原氏十三代目・北原兼守が没すると、その後継人事に介入した伊藤義祐に領地共々奪われ、義祐の意を汲む北原家庶流の馬関田右衛門佐が城主となった。
球磨の相良氏の元に逃げ込んだ北原兼親のため、いったんは島津貴久により北原氏の手に戻るが、北原家中の内部分裂により再び伊東氏の城となった。その後の城主は平良兼賢が任命された。
天正四年(1576年)に高原城、小林城、須木城が島津氏に帰すると、三ツ山城も島津氏の城に帰したとされる。
慶長二十年(1615年)の一国一城令により廃城となった。