長水城 (ちょうずいじょう)
最寄地 兵庫県宍粟市山崎町五十波677−17 2019.4.12
長水城 (ちょうずいじょう)
最寄地 兵庫県宍粟市山崎町五十波677−17 2019.4.12
登城ルート(緑線は車道)
林道終点駐車場・登り口標識
東側郭の石垣
2郭
主郭石垣
主郭の信徳寺
石垣・供養塔
長水城 主郭跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高270m】
【感想】 山崎町五十波と宇野地区に跨る標高584mの長水山に築かれている。
山頂に主郭があり、北、東、南の三方の尾根に郭を階段状に配置してある。参道は割と幅があり、落葉もなかったが、比高が高く途中で休みつつ登った。
林道終点に車があり、途中ですれ違った人も無く住職のものと思われる。住宅のガラスも手入れされ、住まわれているようで、登り下りは大変だなあと思った。
【案内】 国道29号線より北西に行った表記番地横に長水山登山口の道標があり[マップコード304 140 052*84](地図) 、そこから林道を約2km行き、終点に駐車出来る[マップコード304 139 731*65](地図)。
登山口から橋を渡って左の尾根に回り込み、ジグザグに比高約270mの尾根を登ってゆく。
途中に井戸との分岐があり、更に登って石垣のある3段の郭がある。住職住宅があり、その西に2郭、石垣のある主郭に着く。主郭には信徳寺が建てられ、背後の石垣上に供養塔が祀られている。2の丸の南に郭がある。
説明板によると、主郭の石垣は最高で約6mあるが、大部分は後世に積み直されたものと云われる。
【歴史】 南北朝期に赤松円心の3男則祐(そくゆう)によって築かれたと伝わる。
西播磨守護代を務めた赤松氏の一族宇野氏は、室町中期まで篠ノ丸城に本拠を置いたが、戦国期になると防備に優れた長水城に拠点を移したと伝えられる。
天正八年(1580年)四月、聖山城に本陣を置いた羽柴秀吉は宇野方の拠点を次々と攻略し、長水城に迫った。
所々に砦を構えて包囲を固め、一旦英賀(姫路市)へ転戦した。同年五月奮闘むなしく城を脱出した宇野下総守政頼・祐清父子は美作方面へ逃れようとしたが、蜂須賀家政・荒木重堅・神子田正治らの軍勢に追いつかれ、千種大森で討死にしたとされる(五月九日没)。
江戸後期成立の『長水軍記』は、黒田官兵衛の調略で裏切った家臣の放火により長水城が落城したと伝えている。
宇野氏の滅亡で、播磨の反織田勢力は一掃され、当地の戦国時代は終焉することとなった。
その後、宍粟は神子田(みこだ)正治、次いで黒田官兵衛らの領地となり、元和元年(1615年)宍粟藩主となった池田輝澄が山崎城を築き近世城下町を整備し、長水城はその役割を終えた。