諫早城 (いさはやじょう) (高城)
所在地 長崎県諫早市高城町1‐1 2014.9.6
諫早城 (いさはやじょう) (高城)
所在地 長崎県諫早市高城町1‐1 2014.9.6
登城ルート
東の丸跡
本丸跡
石塔・石祠
石段・石垣
武者走り
眼鏡橋
諫早城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高50m】
【案内・感想】 本明川南岸に位置する周囲1㎞の比高約50mの丘陵で「諫早公園」となっており、北側の鳥居より大手道を登った[マップコード44 650 119*01]。鳥居横に駐車スペースがある。
東の丸の先は細くなり、武者走りと呼ばれる帯曲輪が一周本丸を取り巻き、本丸側に石垣の一部が残っている。東の丸より虎口を登ると、本丸跡がある。樹齢六~八百年のクスノキがあり、見張り用の高矢倉跡がある。
西には石塔、祠がある。向かって右は正徳五年(1715年)七代領主茂晴が国家の安泰を祈って建立した「読誦大乗妙典壱万部之塔」の石塔で、左は寛保元年(1741年)八代領主茂行が建立した「読誦法華経壱万部之塔」の石塔である。
右奥に寛政十二年(1800年)十一代領主茂図(しげつぐ)が建立した「藤原明神」で、左奥に諫早家初代の龍造寺家晴を祀って、天保十三年(1842年)十二代茂洪(しげひろ)が建立した「高城明神」の石祠がある。
明治十五年(1882年)東麓に家晴を祭神とする高城神社が建てられた。神社を「新宮さん」、高城明神を「旧宮さん」と呼んで区別されている。本丸の北西から下る搦め手の石段が残っている。
北東にある眼鏡橋は本明川下流400mに天保九年(1838年)着工、翌年完成した。
石橋は昭和三十三年(1958年)11月29日、国の重要文化財に指定され、昭和三十六年(1961年)に諫早公園へ移された。
【歴史】 南北朝時代、伊佐早地方は船越城を拠点としていた「伊佐早家」と、宇木城を拠点としていた「西郷家」の二つの勢力に分れていた。
戦国時代に西郷家が統一し、西郷尚善によって高城(たかしろ)を築いた。
4代西郷信尚は、全国統一を目前にした豊臣秀吉の参陣命令に従わず、龍造寺家晴(初代諫早家)率いる3500の兵に攻められ、必死の抵抗もかなわず、敗れて逃げ去った。
江戸時代になり、2代目龍造寺は姓と地名を諫早とした。慶長二十年(1615年)一国一城令で廃城となったが、諫早家が明治維新まで諫早地方を治めた。
本丸の石碑によると大正八年(1919年)諫早家の好意により市民に開放され、昭和三十三年(1958年)諫早市に寄贈された。