鬼ノ身城 (きのみじょう) (鬼身城) (市の史跡)
最寄地 岡山県総社市山田1350 2022.5.4
鬼ノ身城 (きのみじょう) (鬼身城) (市の史跡)
最寄地 岡山県総社市山田1350 2022.5.4
登城ルート(緑線は車道)
蟻ヶ峠・登り口
十二の壇・東門跡
五の壇
三の壇
二の壇・一の壇切岸
一の壇・諏訪神社
鬼ノ身城 主郭跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高90m(蟻ヶ峠より)】
【感想】 総社市山田の標高284mの山頂に築かれている。三角点のある南側に主郭があり、諏訪神社が祀られている。
北に3つの郭があり、東斜面に五ノ壇が見られた。六から十一ノ壇は規模が小さく笹薮に覆われていた。
【案内】 県道54号線より北に約700m行った表記番地前のT字路を左に道なりに行く。約300m行った墓地横に左右に分かれる道があり、右側のコンクリート舗装道に入る[マップコード111 649 523*21](地図)
池の右を進み約800m行ったヘアピンカーブ直前に駐車スペースがあり[マップコード111 679 386*17](地図)、そこから「蟻ヶ峠」まで歩いた。
「蟻ヶ峠」東に道標があり、城跡まで諏訪神社参道が続いており、十二ノ檀東に大手門跡と思われる屈曲した虎口がある。
昭和五十五年(1980年)1月14日、総社市の史跡に指定された。
【歴史】 築城時期、築城者は伝えられていないが、南北朝時代末期には今川上総介泰範、16世紀初めからは上田氏が城主であった。
5代目の上田孫次郎実親は、備中松山城主・三村元親の弟で三村方に属していた。
その三村氏は毛利氏に属していたが、天正二年(1574年)毛利氏に謀叛を起こし、同年十一月に毛利方の大軍が備中国に出陣した。三村方は松山城をはじめ備中国内にある出城の防御を固め、鬼ノ身城へも兵3000騎を配置した。
しかし、三村方の諸城は悉く落城し、鬼ノ身城も天正三年(1575年)一月十六日より包囲され籠城戦となり、二十三日からは数万の兵による総攻撃を受けた。
城内の兵を救うことを条件に城主上田実親は二十九日辰の刻に切腹した。この時、実親は20歳であった。
上田氏滅亡の後、毛利方の武将宍戸安芸守隆家が城主を命じられ、城代が置かれた。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いの後、毛利氏の防長移封後、廃城となった。