徳満城 (とくみつじょう)
所在地 宮崎県えびの市東川北徳満 2014.9.9
徳満城 (とくみつじょう)
所在地 宮崎県えびの市東川北徳満 2014.9.9
説明板
登城ルート(赤は中之城本丸/緑は高城/青は小城)
城跡碑・説明板
中之城入口
左中之城・空堀・右高城
中之城本丸跡
徳満城 中之城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高40m】
【案内・感想】 県道102号線を九州自動車道を潜り西に約1㎞行った南に「徳満城跡」の看板がある(地図)。
そこより県道102号線を西へ100m行ったバス停付近に駐車できる[マップコード195 230 104*68]。その先100m付近に南の小丘に斜めに入口がある(地図:標識はなく草で分かりづらい)。
空堀を通って東に中之城の本丸、馬場があり、西に南北に分れた高城がある。本丸を通って東に空堀で分けられた土塁の良く残る小城がある。杉林の中に草が茂って歩きにくい。
南を川内川、東を関川が流れる百貫山から続く丘陵の先端部を掘切で隔て、比高約20mの南面を城縄張りとした(その堀切部分は現在、県道102号線となっている)。
郭は高城・中之城・小城の三つに堀切を設けて区画され、高城と中之城の間の空堀が南北へ抜ける主要な通路にもなり、その途中の高城と中之城へ通じる通路が虎口を形成していた。本丸と高城虎口付近に井戸跡が残っている。
【歴史】 応永年間(1394~1428年)真幸院の領主・北原氏が築城した城で、当時は加久藤郷の中心的存在であった。
応永二年(1395年)北原五代範兼が、この城で相良祐頼と宴会中に口論となり、刺し違えて両者とも死去するという事件が発生した。
永享二年(1430年)には、奥州島津家の島津忠国に敗れた総州島津家の島津久林がこの城へ逃れ潜伏したものの、忠国に攻められ、自害した。
久林の墓は、城の西方約500mの場所に存在する(供の者六名の石塔もあったというが、現存していない)。
永禄二年(1559年)北原氏の家督問題に伊藤義祐が介入、北原氏が事実上伊藤氏に乗っ取られた。
永禄五年(1562年)に北原旧臣の日坂下総介が、島津貴久・相良義陽・北郷時久の協力を得て北原兼親を当主に北原氏を再興すると、徳満城主にして徳満地頭であった北原八郎右衛門尉は兼親に従った。
その後、北原氏が没落し、真幸院が島津氏の領有に帰すると、飯野城に入った島津義弘は徳満城の東にあった久藤城を改修、加久藤城として広瀬夫人と子を住まわせたため、徳満城はその支城となった。