志方城 (しかたじょう)
所在地 兵庫県加古川市志方町志方町720 2020.5.9 2021.2.10
志方城 (しかたじょう)
所在地 兵庫県加古川市志方町志方町720 2020.5.9 2021.2.10
龍門坂・観音寺駐車場
観音寺本堂
山門
城跡標柱・説明板
櫛橋氏5名の五輪塔
志方城跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【感想】 観音寺が志方城本丸跡で、遺構はほとんど消滅している。
当時は内堀で本丸を囲み、さらに二の丸(志方小学校)、西の丸(二の丸会館)が囲んでいた。
【案内】 観音寺(表記番地)の南西側の駐車場が利用できる[マップコード24 233 688*51]。南側山門を入った右手に城跡標柱と説明板が建てられている。西側山門横にも説明板が建てられている。
墓地の志方小学校側に櫛橋氏の五輪塔が祀られている。
【歴史】 藤原氏の流れを汲む櫛橋伊朝(くしはしこれとも)を祖とする櫛橋氏は、赤松氏の家臣であった。その後、伊光・伊範・伊高・貞伊・則伊と続いた。
櫛橋左京亮則伊(のりこれ)は赤松政則に仕え、文明十三年(1481年)天神山城を与えられた。
次いで、明応元年(1492年)この地に志方城を築いた。
その後、伊家・伊定・政伊と続いたが、天正六年(1578年)七月、4代城主櫛橋政伊の時、羽柴秀吉に反旗を翻した三木城主別所長治に呼応した。
しかし周辺の野口城・神吉城が羽柴軍に落とされ孤立し、秀吉の救援に赴いていた北畠信雄が7,500余騎をもって志方城に迫った。対する城兵はわずかに1,000余で、しかも半数以上は赤痢のため倒れた。八月十日(9月1日)に櫛橋政伊は降伏し、妹婿に当たる黒田孝高の助言もあり、後に櫛橋一族の多くは黒田氏の家臣となった。
伊定の娘で政伊の妹光(てる)は永禄十一年(1568年)黒田孝高(官兵衛)妻となり、翌年、福岡藩主となる黒田長政を生んだ。
志方城落城後の天正十五年(1587年)、宝岩宗珍和尚が城主の墓碑を守るために城の本丸跡に観音寺を建立し、現在に至っている。