利神城 (りかんじょう) (雲突城) (国の史跡)
最寄地 兵庫県佐用郡佐用町平福988−1 2019.4.13
利神城 (りかんじょう) (雲突城) (国の史跡)
最寄地 兵庫県佐用郡佐用町平福988−1 2019.4.13
登城ルート
平福御殿屋敷跡の石塁
民家南の登り口
尾根の堀切(梯子より)
南西の郭・本丸石垣
本丸南・天守台石垣
天守台
二の丸の石垣
利神城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高230m】
【感想】 佐用町の佐用川左岸の標高373mの山頂に築かれており、国道373号線から階段状の城跡が遠目に望まれる。3重の天守が建っていたという。
一部崩れている石垣や崩れそうな膨らんだ箇所もあり注意を要する。天守台には4、5本の桜が丁度満開であった。最近山城ばかり見てきたので、石垣があると一際印象深い。
【案内】 国道373号線の道の駅「宿場町ひらふく」(表記番地)に駐車するのが便利だと思う。
南側第2駐車場が平福陣屋跡で陣屋門が保存されている。
智頭急行「平福駅」に向かうと北側に平福本陣跡があり、その南に観光案内所があり、その前の通りに沿って宿場町がある。南側に約500m行くと、「武蔵初決闘の場」がある。
道の駅より佐用川を渡って智頭急行「平福駅」手前の細い道を北に約150m歩くと、「平福御殿屋敷跡」があり石塁が東西に残り、線路の部分だけ開削されている。
「平福駅」手前の細い道を南に200m行き、左に線路を潜る道があり、ゲートが設けられている。以前人身事故があり、「登山は遠慮してください」の看板が掛けられている。
線路を潜った東に民家(空家)がありその右手より石垣に沿っていると、ジグザグの山路が尾根まで続いている(地図)。堀切南に「三本松公園」があるが、反対に北に尾根を登ってゆく。古墳石室のようなところから急な尾根を約30分登ると南西の郭に着く。
平成二十九年(2017年)10月13日、国の史跡に指定された。
【歴史】 南北朝時代の1349年(貞和五年/正平四年)に赤松氏一族の別所敦範によって築城された。赤松氏の居城であった白旗城の北の守りとしての役割を果たしていた。
嘉吉元年(1441年)に起こった嘉吉の乱によって赤松氏と共に別所氏も一旦は滅亡した。その後、文正元年(1466年)別所氏後裔の別所治定が城を奪回した。
戦国時代に入り織田信長家臣の羽柴秀吉が中国攻めを行った。時の城主別所定道は羽柴氏に恭順の意を示した。その後、病弱な兄に代わり城主となった林治は本家筋にあたる三木城主別所長治が織田氏に反旗を翻すとこれに従った。
このため、天正六年(1578年)織田方に属していた上月城主尼子勝久と家臣の山中幸盛に攻められ落城した。同年、上月城が毛利氏に攻められ落城すると、利神城は毛利方に属していた宇喜多直家の所有となった。宇喜多氏はその後、羽柴氏に従った。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで宇喜多氏は西軍主力であったため改易となった。
関ヶ原の戦い後、播磨52万石を領し、姫路城主となった池田輝政は、領内に6つの支城を築いたとされ、その一つが利神城である。
城主となった輝政の甥由之が山頂の城と麓の館(平福御殿屋敷)を大改修したと伝えられる。城の周囲は総延長700m近くの石垣を巡らせ、山頂に天守を築き上げた姿から「雲突城」とも呼ばれたという。
元和元年(1615年)池田輝政の6男輝興が佐用郡2万5千石を領して入城した。このころ城下町の整備も進み、のちの「宿場町平福」の繁栄の元となったと云われる。
寛永八年(1631年)輝興が赤穂城へ移り、領地が山崎藩(宍粟市)に組み込まれると、城主不在として廃城になった。