岩尾城 (いわおじょう) (矢部城)
最寄地 熊本県上益城郡山都町下市184‐1 2014.5.10 2015.5.11
岩尾城 (いわおじょう) (矢部城)
最寄地 熊本県上益城郡山都町下市184‐1 2014.5.10 2015.5.11
登城ルート(赤は本丸/緑は二の丸/青は三の丸/水色は浜の館)
城山橋・大手門跡
道の駅より見た二の丸・通潤橋
本丸虎口
本丸跡・城山神社
本丸跡・標柱・四阿
二の丸跡
三の丸跡
浜の館南側外堀跡
浜の館の礎石
岩尾城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 県道180号線「山都町下市」交差点より南に約150m行き、左折して下った、「道の駅・通潤橋」(表記番地)より東に二の丸への遊歩道がある。
二の丸跡(地図)は矢部周辺県立自然公園となり、二段となっており、城跡碑が建てられている。二の丸跡の南に五老ヶ滝川に架かる水道橋として有名な通潤橋がある。下流に五老ヶ滝がある。
通潤橋へ流れる用水路に沿って北東に行き、棚田を登ると三の丸跡(地図)があり、草地となっている。
二ノ丸の北に堀切が残り、標高483m比高約40mの二段になった本丸跡があり、上段に城山神社が祀られ、木製の城跡標柱がありその南に「手形櫓跡」の看板があり、南端に四阿がある。
堀切のある地点から下って北に行くと、かってゲートボール場として利用された(住民の話)帯曲輪がある。北に100mほど行くと、大手門跡に架かる朱塗の「城山橋」がある[マップコード 291 659 698*36 ]。
居館跡は、県立矢部高校(山都町城平954)敷地南に「浜の館外堀跡」の石碑(地図)が建てられ、東側敷地内に「浜の館」建物礎石(地図)がある。
【歴史】 鎌倉時代初期、承元元年(1207年)阿蘇大宮司惟次が南郷より矢部に移り「浜の館」を築き、貞応元年(1222年)天然の険を利用して岩尾城を築いた。
城は五老ヶ滝川の曲流部にある独立丘陵の上に築かれ、周囲に外郭を設けた戦国時代の山城である。
益城地方に勢力を伸ばし、浜の館に移った阿蘇惟忠(1415~85年)が非常事の詰城として修築したと考えられる。
広大な阿蘇家領の政治、経済、軍事、文化等は当城を中心に行われ、阿蘇惟豐の代になって最盛期を迎えた。天文二十一年(1552年)には火事があった事が記録されている。
天正十三年(1585年)惟光の時、島津氏の侵攻によって落城した。天正年間(1573~92年)に阿蘇氏は没落し甲斐氏が城代となり、小西行長の領土となった後は結城弥平次や大田市兵衛が城代を務めた。
関ヶ原の戦いの後、加藤清正が領主となって慶長六年(1601年)に長尾善政を城代にした。善政の死後に入った加藤正直は慶長十七年(1612年)に内牧城(阿蘇市内牧1‐262‐8)に移り、一国一城令により元和二年(1616年)廃城となった。
浜の館跡は現熊本県立矢部高校(山都町城平954)の敷地となっており、阿蘇氏が最盛期を誇っていた時代の中心部であった。中世時代、肥後中部に勢力を誇った阿蘇氏が、阿蘇(南郷谷)より拠点を当地に移し、長らく居館とした。
矢部高校南側の外堀跡や昭和49年の発掘調査で見つかった七間×四間建物礎石にそれを偲ぶことが出来る。