松江城 (まつえじょう) (千鳥城) (国の史跡・日本100名城64)(日本さくら名所100選)
所在地 島根県松江市殿町1‐5 2012.5.8 2017.5.6
松江城 (まつえじょう) (千鳥城) (国の史跡・日本100名城64)(日本さくら名所100選)
所在地 島根県松江市殿町1‐5 2012.5.8 2017.5.6
内堀・南櫓・中櫓
馬溜・大手門跡・太鼓櫓
太鼓櫓
中櫓
南櫓
本丸虎口石垣
現存天守
松江城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 松江城の南東に駐車場が用意されている[マップコード163 501 376*13]。
駐車場の前が内堀で、「堀川めぐり」の舟が運行されている。馬溜跡をゆくと井戸が残り、大手門跡の石垣が遺る。その先になんじやもんじやの木が薫り良い花をつけている。
風薫るなんぢやもんぢやの松江城
石段を登ると南に「興雲閣」(明治三六年、明治天皇行幸の御宿所として建設された洋風建築の迎賓館)がある。
二の丸は本丸東に二段になっており、二の丸上段に南櫓(地図)・中櫓(地図)・太鼓櫓(地図)が復元されている。
北に登って復元された本丸一の門を潜ってゆくと本丸庭園があり北に現存十二天守の一つ、四重五階の木造天守がある。
天守は有料(大人560円小人280円)で観覧できる。その北に明治十年建立の松江護国神社(祭神:松平直政・堀尾吉晴・松平治郷(不昧)・徳川家康)がある。五階からは東西南北の松江の景観が展望できる。
三の丸は県庁等の市街地となっている。
昭和九年(1934年)5月1日、国の史跡に指定され、翌年5月13日、天守が重要文化財に指定された。
【復元】 昭和二十五(1950年)年~昭和三十年(1955年)三月 に天守の解体修理が行われた。費用は約5300万円(当時)。昭和三十五年(1960年)本丸一ノ門と南多聞の一部を復元。平成三年(1991年)4月3日、国の史跡に追加指定された。
平成六年(1994年)三の丸と二の丸を結ぶ廊下門(千鳥橋)(地図)と二の丸下段の北惣門橋(旧眼鏡橋)(地図)が復元された。
平成十二年(2000年)二の丸南櫓と塀(40m)を復元。平成十三年(2001年)、二の丸に中櫓・太鼓櫓と塀(87m)が復元された。
平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(64番)に選定された。日本さくら名所100選に選ばれている。
2015年5月15日、慶長十六年の祈祷札が発見され、天守が国宝になった(彦根城・犬山城・松本城・姫路城)。
【歴史】 鎌倉時代から戦国時代にかけて、この地に末次城(末次の土居)が置かれた。
慶長五年(1600年) 関ヶ原の戦いで戦功のあった堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)が、24万石を得て月山富田城に入城し松江藩が成立した。
月山富田城は中世山城であり近世城下町形成には不利であったので、末次城跡を近世城郭の候補とし、慶長十二年(1607年) 末次城のあった亀田山に築城を開始し、慶長十六年(1611年) 冬、松江城が完成した。(堀尾吉晴はこの年六月に完成目前で急死)。
寛永十年(1633年)忠氏の子・堀尾忠晴没、嗣子なく堀尾氏は三代で改易となった。
寛永十一年(1634年)京極忠高が若狭国小浜藩より出雲・隠岐両国26万石で入封した。三の丸を造営し、ここに松江城の全容が完成した。
寛永十四年(1637年)忠高が嗣子なく没し京極氏は一時廃絶された(のちに他国で再興される)。
寛永十五年(1638年)信濃国松本藩(松本城)より松平直政が18万6千石で入封。以後、明治維新まで松平氏の支配が続いた。
明治四年(1871年)廃藩置県により、廃藩となった。明治六年(1873年)廃城令が公布され、天守を除く建造物は4円から5円で払い下げられ、すべて撤去された。
天守も180円で売却されることとなったが、出雲郡の豪農の勝部本右衛門や元藩士の高木権八が同額の金を国に納めるかたちで買い戻され、保存された。