佐土原城 (さどわらじょう) (田島城) (国の史跡)
所在地 宮崎県宮崎市佐土原町上田島8227 2016.5.15
佐土原城 (さどわらじょう) (田島城) (国の史跡)
所在地 宮崎県宮崎市佐土原町上田島8227 2016.5.15
登城ルート(緑は南の城青は松尾丸)
二ノ丸御殿
御代官所跡
堀道の登城路
南の城
本丸跡・虎口
本丸・天守台跡
佐土原城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高40m】
【案内・感想】 国道219号線に面して「佐土原歴史資料館・鶴松館」(表記番地)駐車場が用意されている[マップコード66 771 225*41]。
二の丸御殿(鶴松館)は二条城を模して建てられ、内部は無料で見学できる。鶴松館の裏に「御代官所跡」「御厩役所跡」「反米役所跡」がある。
鶴松館の裏より東に行った所に登り口がある(地図)。登城路は「出土文化財管理センター」先にもあるが、現在は危険の為使われていない。切通しの登城路は上部から敵に矢を射かけるためのもので、深く曲がりくねっている。
登ってゆくと、左に「松尾丸」へ行く道と分かれ、右に登り左側の高台に「南の城」がある。
北側に登ってゆくと本丸跡がある。本丸北側に天守台がある。
平成十六年(2004年)9月30日、国の史跡に指定された。
【歴史】 南北朝時代、14世紀半ばごろに伊東氏の一族田島休助によって田島城(たじまじょう)として建てられた。
応永三十四年(1427年)頃、田島氏は日向国に勢力を伸ばしてきた伊東氏から城を追われ、伊藤祐賀が入城し佐土原氏を名乗った。さらに文明十二年(1480年)に伊東本家筋から伊東祐国が佐土原氏の養子に入り、正式に伊東氏が田島城(佐土原城)を支配した。
天文五年(1536年)伊東義祐が佐土原城に入った。翌年火災で焼失し、義祐は宮崎城へ移った。
五年後、田島城(佐土原城)の跡地に新しく鶴松城(かくしょうじょう)として建てられた(通称は佐土原城)。
永禄十一年(1568年)義祐は伊東四十八城を置き佐土原は政治経済の中心地として栄えた。
天正五年(1577年)伊東義祐は島津義久に敗れ大友氏を頼って、豊後に逃れた(高城の合戦)。天正七年(1579年)義久の実弟島津家久が城主として入った。
天正十五年(1587年)、豊臣秀吉が九州に侵攻、根白坂の戦いに敗れた島津義久は秀吉の傘下に入った。その直後に家久は急死(死因については暗殺などの諸説ある)、息子豊久が城主となる。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで島津家は西軍に参加。豊久は戦死し、徳川家康の家臣、庄田三太夫が一時的に預かった。
慶長八年(1603年)に島津以久が3万石を領して入封、以後明治まで領した。
慶長十五年(1610年)佐土原城を大改修、天守、櫓、塀門を造ったとされる。
寛永二年(1625年)、二代藩主島津忠興の代に、山の上の建物を壊して、麓にある二の丸に館を移した。この際に正式名称が本家の鶴丸城と同様に「鶴」の文字をおいた松鶴城(しょうかくじょう)となる(通称は佐土原城)。
明治三年(1870年)、十代藩主島津忠寛は広瀬城(現・宮崎市佐土原町広瀬)に移転したため、建造物は全て破却された。
翌年廃藩置県により佐土原藩は佐土原県となり、移転先の広瀬の城も未完のまま取り壊された。
平成五年(1993年)、発掘調査の成果をもとに二の丸御殿の一部が復元された。