城村城 (じょうむらじょう)
最寄地 熊本県山鹿市城817 2016.5.12
城村城 (じょうむらじょう)
最寄地 熊本県山鹿市城817 2016.5.12
登城ルート
入口
二の丸跡
堀切
本丸跡
城跡碑・一揆記念碑
下の段
城菅原神社
城村城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 城菅原神社(表記番地)の鳥居よ り、東に150mほど行った左側に入口がある(地図)。その手前に説明板が建てられ、駐車スペースがある[マップコード 175 456 005*53 ]。城菅原神社は隈部親安の勧請といわれる。
入口を登ると、左側に広い二の丸跡がある(地図)。二の丸の西側に三の丸跡があり、畑となっている。二の丸の北に行くと堀切があり、主郭虎口を経て本丸跡がある。
約50m四方の本丸北側に「城村城跡」の石碑、「肥後国衆一揆四百周年記念碑」「城村城の戦い」の説明板が建てられている。本丸の北東下段に、「下の段」がある。
【歴史】 築城年代は不明だが、赤星氏・隈部(くまべ)氏と共に、菊池三家老だった城(じょう)氏代々の居城であった。
城村城が一躍世間の耳目を引くようになったのは、天正の国衆一揆の舞台となったときである。
戦国時代には菊池氏が衰え、菊池三家老の間に争いが起こり、城村城には隈府城主隈部親永の子・親安が入城していた。
天正十五年(1587年)の豊臣秀吉の九州平定後、秀吉は肥後国の領主に佐々成政を任命した。
成政は、領内を早急に把握するために、秀吉の命令に背いて検地を実施したが、隈部親永は、自分たちの領地は秀吉によって安堵されていると主張して反抗した。
成政は6千の兵を率いて隈部館(猿返城)を攻撃し、敗れた親永は親安のいる城村城に入り、以降、隈部氏の反抗は城村城が中心になった。
隈部勢は、武士をはじめ、雑兵、領民を含め総勢1万5千名以上が籠城し、八月七日より、城の各地で激戦が行われた。城村城の攻防戦の最中、成政の本拠である隈本城に他の国人が攻めたとの報せがあり、成政は2つの付城(東付城と西付城)を設けて隈部勢に備えると、急遽、隈本に戻ってこれを破った。
成政の応援要請を受けた筑後国柳川(現 福岡県柳川市)の領主・立花宗茂の兵3千も加わり、城村城から出撃した山鹿重安・有働志摩は、立花勢と戦ったが敗れた。
天正十五年(1587年)十二月、黒田孝高の勧告を受け、ついに親永は城を明け渡し、翌年5月、柳川で処刑された。
秀吉は上使衆(じょうししゅう)および2万の軍勢を派遣し、隈部氏に呼応した国人たちはことごとく処罰された。成政もまた国衆一揆を引き起こした責任を問われて、秀吉から切腹を命じられた。『山鹿市ホームページ』より。