己斐城 (こいじょう) (己斐新城・平原城)
最寄地 広島県広島市西区己斐中3-24-127 2016.5.18
己斐城 (こいじょう) (己斐新城・平原城)
最寄地 広島県広島市西区己斐中3-24-127 2016.5.18
登城ルート
登り口
東郭跡
本丸跡・説明板
空堀
二の丸跡
己斐城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高100m】
【案内・感想】 広島市立「己斐東小学校」(表記番地)の南西の道路に面して階段があり、左側を登る[マップコード22 246 306*46] 。右側は小学校裏門用となっている。駐車スペースは少ない。
標高132m比高約100mの茶臼山頂上に本丸跡があり、西に二の丸跡がある。一段下がって、東の郭、北の郭、西の郭、南の郭が夫々の方角にある。
南約1.5kmに己斐古城(岩原城)がある。
【歴史】 永正十二年(1515年)、銀山城主・武田元繁が己斐豊後守師道入道宗端(そうたん)を攻撃し、数か月にわたり包囲するが落城には至らなかった。
己斐宗端は永正十四年(1517年)の有田合戦で武田元繁陣営として毛利元就勢と戦い討死した。
宗端の子、己斐豊後守直之の時、天文二十三年(1554年)の折敷畑の戦いの前に草津城などと共に毛利元就に攻撃され、落城した(防芸引分)。
直之は、翌年の厳島の戦いで毛利方の宮尾城の城将として戦い、合戦後に隠居した。
その後、直之の弟、己斐利右衛門興員が城主となった。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦い後、毛利氏が防長に転封されると共に廃城となった。