小泉城 (こいずみじょう) (片桐城・小泉陣屋)
最寄地 奈良県大和郡山市小泉町1540 2016.4.24 9.3
小泉城 (こいずみじょう) (片桐城・小泉陣屋)
最寄地 奈良県大和郡山市小泉町1540 2016.4.24 9.3
公園入口・片桐城址碑
説明板・城趾碑
説明板
公園にある小泉城趾碑
小泉神社移築城門
南側堀と復興櫓
小泉城跡 復興櫓(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 県道123号線の表記番地西側入口に「片桐城址」の石碑があり[マップコード11 136 727*71] 、50mほど行って階段を登ると公園となり「小泉城址」の石碑、説明板が建てられている(地図)。
小泉神社(小泉町2333)南の表門は移築城門である。
県道9号線と県道123号線の交差点より東に50mを右折すると、左手に水堀があり、その北に復興櫓が建てられている(地図)。
【歴史】 小泉氏はもともと興福寺衆徒で嘉吉三年(1443年)に小泉重弘が大乗院門跡経覚と共に筒井氏と戦った。重弘はその後戦死するも、康正元年(1455年)に畠山弥三郎側についていた筒井氏が没落すると、古市氏、豊田氏、秋篠氏、尾崎氏、鷹山奥氏の国人らが勢力を拡大し、小泉氏と共に4年間興福寺衆徒についた。その後長い間、筒井氏と対立していく。
筒井氏と小泉氏は反目していたが、天文年間、小泉秀元は筒井順昭の姪を娶って、筒井氏の重臣と活躍し、軍功によって1万4千石が与えられた。
天正十三年(1585年)、豊臣秀長が郡山城に入り大和国を治めるが、その家臣であった羽田長門がこの小泉の地に4万石で入った。この時に現在もあるナギナタ池、お庭池を含む外堀を造ったものと言われ、小泉氏の館跡を拡大したと思われている。
慶長六年(1601年)、豊臣秀吉に仕えていた片桐且元の弟・片桐貞隆が小泉城を含め1万5千石で大名となった。
その後『茨木市史』によると「片桐氏の茨木入城の時期については関ヶ原合戦後と考えた方がよい」とあり、関ヶ原の戦い後に片桐且元、片桐貞隆兄弟の本拠地としていた龍田城や小泉城から、大阪城の近くの茨城城に移って豊臣氏を補佐していた。
そして慶長二十年(1615年)大阪の役が終わると、今度は徳川家康より片桐且元は4万8千石、片桐貞隆は1万6400石に加増され、片桐貞隆は元和九年(1623年)に小泉城に戻ってきた。ここより小泉陣屋として新たにスタートし、陣内にいた農民を街道筋に屋敷替えを命じ再び大きく改修した。
茶人として有名な石州流の元祖、片桐貞昌は寛永四年(1627年)、父の死去により小泉藩第2代藩主となった。貞昌は弟の貞晴に3千石分知し、小泉藩は1万3千石となった。
延宝二年(1674年)3代藩主となった定房は、庶兄の片切信隆に1千石を分知したため、1万2千石となった。さらに収公され1万1千石となった。
その後藩主は、貞起(1710~41年)―貞音(41~50)―貞芳(50~87)―貞彰(87~1822)―定信(22~41)-貞中(41~43)―貞照(43~62)―貞利(1862)―貞篤(62~71)と続いた。
片桐氏は初代貞隆から12代貞篤まで代々と小泉の地を離れることなく明治維新を迎え、明治四年(1871年)廃藩置県となった。明治六年(1873年)廃城令によって取り壊されたと思われている。『ウィキペディア』より。