佐嘉飯盛城 (さがいさがいじょう) (飯盛館)
所在地 佐賀県佐賀市本庄町鹿子1206−3 2019.12.9
佐嘉飯盛城 (さがいさがいじょう) (飯盛館)
所在地 佐賀県佐賀市本庄町鹿子1206−3 2019.12.9
天満宮西側
天満宮東側の濠
常照院
常照院北側の濠
佐嘉飯盛城 本丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 佐賀城の南西約3kmに位置する平城で、周囲はクリークを利用した濠に囲まれていた。常照院が本丸跡とされ、北側から東にかけて濠が残っている。古井戸もあるようだが、見落した。
【案内】 妙光山常照院(表記番地)南側の駐車場が利用できる[マップコード87 199 462*53]。
常照院が本丸跡で南西部の天満宮が2の丸と思われ、更に南に3の丸があったという。
【歴史】 飯盛村中心部の本善寺(現常照院)付近に大宰府守護少弐満貞の嫡男資嗣によって築かれた。
その後、地侍飯盛氏が入り、さらに小城郡主千葉氏のもとで立身した石井忠國が当村を知行することになり、嫡男忠保が小城郡から移り、本拠地とした。
忠保の孫忠清のとき、水ヶ江城主龍造寺家兼の家臣となり、当城も水ヶ江城の出城として、海岸警備の拠点となる。
天文年間(1532~55年)に、家兼・隆信2代にわたり、水ヶ江城を追われて筑後国に亡命すると、敵方の高木氏、神代氏、八戸氏の軍勢が駐屯した。
天文二十二年(1543年)、龍造寺隆信が筑後国から帰還し、水ヶ江城へ進軍する途上、隆信旗下の石井義昌(忠保の孫、忠清の三弟)・忠晴隊が攻略・奪回し、再び石井氏の居城となった。
江戸時代に入り、石井氏は佐賀平野のさらに南部の河副郷に転封となり、当地を去ったことから、当城も廃城となり、城域にあった本善寺も衰退した。
元和元年(1615年)、佐賀藩初代藩主鍋島勝茂が、外祖父石井常延(忠清の嫡男)の追善供養のため、本善寺を再興し、常延の法名に因んで常照院と改称した。現在では同院の境内がかつての佐嘉飯盛城跡とされている。
常照院の境内が、旧城の主郭(本丸)と考えられ、主郭の南に二郭(二の丸)、さらにその南に三郭(三の丸)が配置された縄張りであった。境内には、城時代の古井戸跡や、水豪跡などが残っている。