津奈木城 (つなぎじょう) (舞鶴城)
所在地 熊本県葦北郡津奈木町津奈木 2014.9.8
津奈木城 (つなぎじょう) (舞鶴城)
所在地 熊本県葦北郡津奈木町津奈木 2014.9.8
登城ルート(緑線は車道)
駐車場
重盤岩(日章旗の所)
二の丸・四阿
二の丸・奥に本丸切岸
本丸石垣
本丸跡
津奈木城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 国道3号線の「舞鶴城公園」の大きな看板があり[マップコード226 866 033*33](地図)、そこから 町道を西に約1㎞登る。
終点に「舞鶴城公園」駐車場が用意され[マップコード226 835 584*44] 、西に行くと加藤清正が見張所としたと云われる重盤岩があり、東に登ると四阿のある二の丸跡があり、その西側上段にテレビ鉄塔の立つ本丸跡がある。
標高約120m比高約20mの頂上から九州新幹線高架橋の通る津奈木の町が望める。駐車場手前に巾3~4m、傾斜高5~6mの堀切があり、南東に堀底道を下ると大手門跡に着き、石垣や石畳が見られる。
【歴史】 建武元年(1334年)八代城(古麓城)主・村上顕興(あきおき・名和氏流)の命で築城され、家臣の加悦泰行が城主となった。南北朝の争乱では、南朝方に与した。
応仁元年(1467年)葦北は人吉相良氏の支配下になり、相良一族の者が城主となった。
大永五年(1525年)より享禄三年(1530年)にかけて相良氏の内紛が続いた。
相良長定が津奈木城に逃げたため、相良長唯が軍を派遣し津奈木城を陥落させた。長唯の重臣が地頭として入城した。
天正九年(1581年)島津義久は相良義陽(よしひ)と水俣・津奈木で戦ってこれを降し、葦北郡を割譲させた。
天正十五年(1587年)豊富秀吉の九州征伐に際し、秀吉の先鋒役を務めた深水宗方(そうほう)の功績に対し、秀吉は津奈木・水俣等の領地を与え、秀吉の城代に任じた(深水宗方の墓碑が津奈木城南東麓に南向きに建ち「権大僧都法師宗方」の刻字がある)。
天正十八年(1590年)八月、相良氏が城代となった。文禄二年(1593年)頃には寺沢志摩守広孝が代官兼城代になった。
慶長三年(1598年)後に唐津城主で大名となった寺沢広高が領有した。翌年には小西領となった。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、小西行長が改易され加藤清正領となり、清正の重臣が城主となった。
平野長時・小代(しょうだい)下総守・竹内吉兵衛・森本義太夫らの名を見ることが出来る。慶長二十年(1615年)に徳川幕府の一国一城令が布告され、廃城となった。
寛永九年(1624年)肥後一国を与えられた細川氏が肥後藩主となった後に、深水宗方の子孫が、湯浦、津奈木、水俣、九木野の総庄屋役を務めた。
数多の家臣も兵農分離策で帰農浪人化する中で、重臣的な者は「地侍」として肥後国境の警備体制の一つに位置づけられた。『現地説明看板』より。