竹田城 (たけだじょう) (天空の城・虎臥城・安井ノ城) (国の史跡・日本100名城56)
所在地 兵庫県朝来市和田山町竹田 2012.5.9 2020.5.5
竹田城 (たけだじょう) (天空の城・虎臥城・安井ノ城) (国の史跡・日本100名城56)
所在地 兵庫県朝来市和田山町竹田 2012.5.9 2020.5.5
登城ルート(緑線は車道)
虎口・見付櫓石垣
本丸から見た北千畳方面
大手門石垣
二の丸・本丸石垣
本丸跡・天守台石垣
南千畳
竹田城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★ 比高250m(竹田駅より)】
【感想】 南東に立雲峡を望む標高353.7mの古城山(虎臥山)に築かれ、縄張りは、南北約400m、東西約100mを占める。
廃城から約4百年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模となっている。北に播但自動車道、東に和田山町の家並みが望める。
階段状に造られた曲輪の石垣が見る者を圧倒する。日本のマチュピチュといわれる所以である。
【案内】 JR播但線朝来駅西より登ることが出来る(約800m)。車の場合は、県道138号線の「安井谷老人福祉センター」(朝来市和田山町殿32)東より一方通行にて南に約2㎞行くと駐車場がある(地図)。
そこより東に900mほど行くと、駅からの登山道に合流し、城跡北東側の見付櫓・北千畳に着く。
天守台をほぼ中央に配置し、桝形虎口に続く本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する郭がある。
竹田城の北東尾根続きの観音寺山に観音寺山砦が築かれており、武田小学校裏から砦を経由する遊歩道が設けられ、竹田城の見付櫓前に通じている。
昭和十八年(1943年)9月8日、国の史跡に指定され、平成二十一年(2009年)7月23日、追加指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(56番)に選定された。
【歴史】 嘉吉三年(1443年)、守護山名持豊(宗全)によって築かれ、太田垣光景が初代城主に任じられ太田垣氏が7代に亘り居城した。
応仁元年(1467年)、細川勝元と山名宗全の争いに端を発する「応仁の乱」が起こると但馬は細川氏と山名氏の争いの場となった。
翌、応仁二年(1468年)三月、細川氏の内藤軍が夜久野から但馬に侵攻しようとしていた時、竹田城で留守を預かっていた2代太田垣景近の軍は、竹田城から出軍し夜久野で合戦となり小勢ながらよく戦い、内藤軍の大将2名を討ち取った。
永禄十二年(1569年)羽柴秀吉は但馬へ攻め入り竹田城を攻略した。天正五年(1577年)7代太田垣輝延の時、再び秀吉軍の攻撃を受け落城した。
この後、秀吉は弟小一郎秀長を城代として城の整備を行わせた。天正八年(1580年)桑山重晴が城主となり、同十三年には四国征伐等で功のあった赤松広秀を竹田城主に任じ、現在の城にした。赤松広秀は九州征討、朝鮮の役に出陣し功を挙げた。
最後の城主である赤松広秀は関ヶ原の戦いで、西軍に属し、田辺城(舞鶴城)を攻めるも、西軍は敗戦した。その後徳川方として鳥取城攻めに加わって落城させるが、鳥取城下に火を放った責めを負い家康の命によって、慶長五年十月二十八日(1600年12月3日)鳥取真教寺にて切腹(享年39)させられた。
広秀の居城であった竹田城は、家康の命により 山名豊国が受取りに行き、入城したが、その後江戸幕府の方針により、竹田城は廃城となった。