大友氏館 (おおともしやかた) (国の史跡)
所在地 大分県大分市顕徳町3‐5 2014.9.11
大友氏館 (おおともしやかた) (国の史跡)
所在地 大分県大分市顕徳町3‐5 2014.9.11
館跡・説明看板
発掘現場・日豊本線
大友頼泰の墓
大友氏館跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 表記番地に大友氏館跡があり、現在空地となっている[マップコード46 239 191*67] 。館は国道10号線、日豊本線高架橋を館の東、南とする一辺が200mの方形をしていた。発掘調査の最中である。西に「大分市顕徳町文化財資料室」が建っている。
常楽寺(大分市大字岡川秋岡582)の東150mに大友家三代頼泰の墓がある(地図)。
万寿寺は、徳治元年(1306年)に五代大友貞親によって建立された大友氏の菩提寺で、大友氏館の南東(現在の大分市元町)に位置していた。
平成十三年(2001年)八月十三日に「大友氏館跡」として国の史跡に指定された後、2005年に旧万寿寺跡地区が追加され、名称が「大友氏遺跡」に改められた。
【歴史】 三代大友頼泰は、元寇の危機が強まると鎌倉幕府の命により鎮西東方の奉行に任命され、文永九年(1272年)の初めには豊後国へ下向して、少弐氏とともに九州の軍政を担当し、相模国より豊後国に移住・土着し豊後大友氏の祖となった。
七代大友氏泰は、建武三年(1336年)足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて九州に落ち延びてきたとき、尊氏の再挙に貢献した。その功績により室町幕府開設後、豊後の他に肥前・豊前・日向の守護に任じられた。
その後、大友氏泰は、現在の大分市市街地の東部、当時大分川の河口であった付近(現在の大分市顕徳町)に館を構え、この館を中心とする大友氏の城下町は府内と呼ばれた。
中世の府内は東西約700m、南北約2200mに及び、その中心となる大友氏館は一辺約200mの四辺形で、典型的な守護館であったと推定されている。
最盛期にはほぼ九州一円を支配した21代大友宗麟(義鎮・よししげ)はキリスト教を保護し、明との貿易や南蛮貿易を行った。
戦国時代の府内は、大友氏の城下町として、また、外国との貿易港として栄え、弘治三年(1557年)には日本で初めての西洋式の病院が開設され、天正八年(1580年)にはコレジオ(神学校)が設置されるなど、南蛮文化が花開いた。
しかし、フロイスの『日本史』によれば、府内は天正十四年(1586年)の島津家久の侵攻の際に焼き討ちに遭い、壊滅したとされる。
文禄二年(1593年)、22代義統(よしむね・宗麟の嫡子)が文禄の役において敵前逃亡をしたとされ、秀吉の逆鱗に触れ改易された。