清水城 (しみずじょう)
最寄地 鹿児島県鹿児島市稲荷町36−29 2014.5.11
清水城 (しみずじょう)
最寄地 鹿児島県鹿児島市稲荷町36−29 2014.5.11
登城ルート(緑は橋之口城)
清水中学校東南角
大手の石垣
大堀切
空堀馬場
空堀
山城主郭
橋之口城・祠群
清水城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高100m】
【案内・感想】 清水中学校(表記番地)の南東角より北に登ってゆくと三台位の駐車場がある[マップコード42 098 068*13] (地図)。
そこより北に登るとすぐに清水城の山城石垣群が残る。湧水場を経てしばらく歩くと開けた場所に着き、元禄十七年造「山神権現」の碑がある。
そこより北に大堀切と呼ばれる通路を登ると、防空壕群(20余)が右手にあり、空堀馬場という広い低地に至り、その東の標高128m比高約100mの高台上が主郭である。
清水城山城の搦め手をさらに行くと、橋之口城となり清水国民学校「葛山錬成道場」の石碑、石の祠三基が祀られている。
そのまま行くと民家の敷地となり、「鹿児島市東坂元3丁目7」の市道(地図)に出る。
空堀や堀切は良く残り石垣も数か所残っている。
【歴史】 暦応四年(1341年)、五代当主島津貞久は東福寺城を攻め落とし、島津氏の本拠としたが、海岸に迫った小山の東福寺城は要害の地ではあるが狭く、平時の政務には適さなかった。
そのため、貞久の孫にあたる氏久の子・7代当主元久は嘉慶元年(1387年)、やや内陸の清水城に居城を移した。
清水城は平地にある居館と裏山に築かれた「後詰めの城」の二重構造になっており、その後の島津氏の城の基本形となった。
その後十四代当主・島津勝久まで清水城を本拠地としていたが、天文十九年(1550年)、十五代当主・島津貴久は清水城から、海岸に近い内城に居館を移した。
清水城の居館跡地には大乗院が築かれ(現在の清水中学校敷地)、清水城の館部は廃城となった。しかし、後詰めの城までは放棄されなかった。
慶長六年(1601年)、徳川家康から所領と家督を安堵された島津忠恒は鹿児島城を築き始めるが、忠恒の父・義弘は、関ヶ原の合戦後で政情不安な時期に鹿児島城は要害の地ではなく本拠として不適格であること、家臣も新城建築の負担に耐えないとして、既存の城である清水城か一宇治城を使うように苦言を呈した。
しかし、忠恒は鹿児島城建築に固執、慶長九年(1604年)に鹿児島城が完成したため、清水城は実質的に廃城となった。
大乗院は明治の廃仏毀釈で廃寺となり、跡地には鹿児島市立清水中学校が建てられ、そのため居館跡には城郭遺構は全く残っていない。