山下城 (やましたじょう) (人見城・笹城)
最寄地 福岡県八女市立花町北山1603 2017.5.8
山下城 (やましたじょう) (人見城・笹城)
最寄地 福岡県八女市立花町北山1603 2017.5.8
登城ルート
駐車スペース
頂上手前の坂
頂上西側
主郭・城趾碑
フエンス内の主郭
山下城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆ 比高100m】
【感想】 城跡下まで続く道は狭く、作業用軽トラとのすれ違いも困難である。麓から徒歩を勧めたい。
白木川西の標高140.7mの丘陵にあり、蜜柑山となっている。フエンスの中に主郭が広がっているが、扉が無く入れなかった。
国見岳城の西南西約800mに位置している。
【案内】 国見岳城南東の県道4号線より西に行き白木川を渡って右折して行った表記番地の先に駐車スペースがある[マップコード37 021 795*50]。
徒歩で細く曲がりくねった道を約600m西に行くと、視界が開けミカン畑の山が見える(地図)。
そこより大きく右に曲がり登ってゆくと頂上に出、右側のフエンスの中に「山下城趾」(大正七年10月建之)の石碑が建てられている。フエンスの中が主郭となっている。
西側に伸びる尾根も階段状の郭跡と思われるが、ミカン畑に改変されている。
【歴史】 蒲池親広(かまちちかひろ)が永正年間(1504~21年)に当地に居館を構え、その後、子の蒲池鑑広(あきひろ)が築城したという。
蒲池氏は大友氏に属して戦っていたが、天正七年(1579年)に龍造寺隆信の勢力下に降った。天正十二年(1584年)には隆信の戦死後も龍造寺氏への忠誠を誓い、城主・蒲池鎮運(別名:蒲池家恒、鑑広の嫡男)が人質として息子・蒲池鎮行を差出している。しかし家恒はこの時点で大友氏に誼を通じており、同年七月に大友勢が筑後に侵攻し、さらに猫尾城への攻囲に立花道雪が加わると八月1一日に降伏している。
その後、島津軍の北進に伴って島津氏に従った。天正十五年(1587年)に豊臣秀吉の九州国分で蒲池氏は三池郡に知行を与えられるとともに江ノ浦城の高橋直次の与力を命じられて移り、当城は筑紫広門に与えられた。
同年、広門は福島城を築いて移り、慶長六年(1601年)に筑後に移封された田中吉政は当城を廃城とした。