長藪城 (ながやぶじょう)
最寄地 橋本市城山台3丁目23−7 2018.7.12
長藪城 (ながやぶじょう)
最寄地 橋本市城山台3丁目23−7 2018.7.12
登城ルート
給水塔
1番目の堀切
2番目の堀切(横から)
東城
北側鞍部の堀切・土橋
西城・土塁(東側)
長藪城 西城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高110m】
【感想】 標高351mの城山に階段状の郭を配置した西城(主郭)があり、鞍部を経て東に東城を配置してある。
馬蹄形の城で東城の南西尾根に巽曲輪、西城の南西頂上に出丸がある。堀切もよく残っている。
【案内】 橋本市城山台3丁目23番地の外れにある給水塔前に駐車できる[マップコード10 059 873*60](地図)。但し住宅地が近くにあり、できるだけフエンスに寄せて駐車する。
その先の「城山台三丁目集会所」左より登る。巽曲輪を越えて北東へ2つの堀切を越えて山道を行くと東城に着く。
東城の手前に郭があり、そこより左に下り尾根を行くと堀切が2つあり切岸の目立つ西城に着く。西城の東と北側に土塁が見られ、南側に一段ずつ下がって広い曲輪がある。南端に堀切がある。
そのまま南西に行くと出丸があるが、日没間近で引き返した。
【歴史】 この紀北の地に勢力のあった牲川(にえかわ)左衛門頼俊は楠木正成に仕え、千早城落城によって十津川へ逃れて住んだ。
その子孫牲川義春は紀州守護畠山氏に従い、紀北へ復帰し、文明年間(1469~87年)長藪城を築いて居城としたという。
義春の後に義則、義次と続き、畿内に勢力を伸ばした織田氏に属した。しかし、その子義清のとき、天正十三年(1585年)の羽柴秀吉による紀州攻めによって落城した。