大分城 (おおいたじょう) (府内城・荷揚城・白雉城) (県の史跡)(日本100名城94)
所在地 大分県大分市荷揚町4 2013.10.12
大分城 (おおいたじょう) (府内城・荷揚城・白雉城) (県の史跡)(日本100名城94)
所在地 大分県大分市荷揚町4 2013.10.12
西隅二重櫓
南の着到櫓
北側の廊下橋
北側の人質櫓
天守台石垣
大分城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 大分城址公園(表記番地)となっており、堀や石垣が一周巡り良く保存され、西側から入ったところに駐車場がある [マップコード46 268 374*13]。
本丸跡北西隅に人質櫓(二重櫓)と南西に宗門櫓(平櫓)が現存し、大分県の史跡に指定されている。
また、着到櫓等3棟の二重櫓と大手門、土塀、廊下橋が復元されている。三の丸跡には、大分県庁・大分市役所などがある市街地である。
本丸北隅に天守台があり、北西の廊下橋を渡ると山里丸でさらに北に松栄神社がある。
県の史跡に指定されている。
【歴史】 中世には、現在の大分駅東方に、大友氏館(大分市顕徳町3-5)と呼ばれる守護館が築かれた。
慶長二年(1597年)豊臣秀吉の家臣・福原直高が十二万石を得て臼杵より転封し、堅固な城郭を求めて大分川河口付近に築城を開始した。
この地は大友氏時代に船の荷役を行っていた場所で「荷落」という地名であったが、縁起を担ぎ地名を「荷揚」に改め、名を荷揚城としたという。
慶長四年(1599年)四月、荷揚城が完成した。五月、秀吉の死後、三成派の福島直高は徳川家康により6万石に減封の上、再び臼杵城に転封され、直高入封前に府内代官であった早川長政が入城した。
慶長六年、関ヶ原の戦いで西軍に付いた長政が改易となり、竹中重利が3万5千石で入城し、直高の時代に築城された荷揚城の大改修を開始した。
慶長七年(1602年) 四重天守、櫓、山里曲輪、内堀が完成し、慶長十年(1605年)に 外堀が完成した。慶長十二年(1607年)、 笠和口、堀川口、塩九升口の各門が完成し、大改修が概ね終了した。
寛永十一年(1634年)竹中重利の子・重義は長崎奉行時代の不正のため、切腹、二代で改易となった。
代わって、日根野吉明が2万石で入城した。明暦二年(1656年)吉明が嗣子無く没し日根野氏は廃絶した。臼杵藩主主稲葉信通が城代となった。
万治元年(1658年)大分郡二万石を領する松平忠昭が高松陣屋より入城し、以後、明治維新まで大給松平氏が居城とした。
寛保三年(1743年)大火により天守を含む大部分の建造物が焼失し、以後、天守は再建されなかった。
明治五年(1872年)城内に大分県庁が置かれた。大正八年(1919年)県庁の拡張工事のため内堀の一部が埋め立てられた。
昭和二十年(1945年)米軍の大分空襲により櫓数棟が焼失した。