温湯城 (ぬくゆじょう)
最寄地 島根県邑智郡川本町川本1132 2018.5.9
温湯城 (ぬくゆじょう)
最寄地 島根県邑智郡川本町川本1132 2018.5.9
登城ルート(緑線は車道)
縄張り図
登り口
クラヤシキ東の堀切1
テラヤシキ
バセンバ
主郭
2郭
2郭東の堀切
温湯城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高130m】
【感想】 川本町川本の標高約208mの山頂に築かれている。2郭背後の東側尾根に堀切が3条残り、主郭の西に比高約40m下がって半月状平坦地(バセンバ)、更に下がってテラヤシキがあり、クラヤシキへ至る尾根に6条の堀切が残っている。クラヤシキは草木で鬱蒼としていた。
偶々、教育委員会の方が視察される場面に同行でき、民家の御主人に主郭まで案内して頂き安心して山道を登ることが出来た。
登り口の標識は御主人の手作りだそうだ。山道の要所々々 に標識やマーカーをつけて頂ければ有難い。
【案内】 川本町市街より県道31号線を南下し、会下川を渡った先の「田水→」の標識のある交差点を左折、約500m行くと1軒の民家(表記番地)があり、その手前左の空き地に駐車できる[マップコード430 210 466*62]。
民家入口の南側に鉄塔管理道があり登り口の標識が建てられている。50m程登って右に行くと、クラヤシキへ至る。
左に行き九十九折の山道を登るとテラヤシキ北側に着き、北側斜面に竪堀群が見られる。
北側の斜面を東へ登ってゆくと、主郭北の腰郭に出、鉄塔管理標識が建てられている。尾根の右側を南西に下ると半月状のバセンバに至り、反対に登ってゆくと、最高所に主郭がある。主郭は東西に細長く東側が1mほど低くなっている。
主郭切岸を下ると東に細長い2郭があり、急斜面を下ると堀切とそれに続く竪堀が見られ、少し東に2重堀切がある。その東の尾根を行けば会下山城に至る。
【歴史】 温湯城の築城及び赤城からの移転時期は定かではない。小笠原長氏が当主だった正平二年(1347年)に既にあったとも『日本城郭大系第14巻』、次代の小笠原長義が応永元年(1394年)に石見守護(大内義弘)の許可を得て築いたとも言われている『石見町誌』。
弘治二年(1556年)四月四日の小笠原雄勝判物写に「先年温井籠城」とあり、勢力を拡大していた毛利氏とも対立している。
小笠原長雄の時に、毛利氏と尼子氏の石見銀山争奪戦の中で毛利元就により攻撃を受け、永禄二年(1559年)に陥落した。
永禄三年(1560年)吉川元春の管理下になり、番衆が置かれた。
【温湯城の戦い】
永禄元年二月に毛利軍(吉川元春)が迫ったため、長雄は尼子軍と共に別当城(邑南町)に陣を構えて迎え撃つが温湯城に退却(出羽の戦い)。しかし、毛利軍は湯温城を落とせなかった。
そこで同年または翌年の五月下旬、毛利元就・毛利隆元・小早川隆景らも合流した1万2000の軍勢が侵攻した。
周辺の日和城や赤城も攻め落とされ、六月には温湯城を囲まれた。この時元就は、温湯城のすぐ東側に陣城である会下山城(えげやまじょう)を築いた。
七月には尼子晴久は援軍として出陣するが、豪雨による増水で江の川を渡河できなかった。そのため、隆景の説得を受け入れた八月に開城。長雄は死を免れて甘南備寺(江津市)に移された。永禄十二年(1569年)に没したといわれる。